「我が娘ながら不思議な子でした」
女はそう言って、ナナフシのような細長い指を持ち上げた。
「あの、樹」
指の先にはこの街のシンボルとなっている大きな楠が、空に向けて枝を伸ばしている。
「あの樹の下で本を読むのが好きで、私はそれをここから見るのが好きでした」
視界を埋め尽くすほどの大木は、ここからでも葉擦れの音が聞こえそうなほどで、確かに子供が本を読んだり遊んだりするのにちょうど良い木陰だった。
「本を読みながら時々、上を見上げてるんです。あの子」
女の指は楠を指したまま動かない。
「誰かと話してるみたいにニコニコして、目を輝かせて。でも、誰もいないんですよ」
そう語る横顔は、愛しい我が子を思い出すというより、不可解な生き物を目にして戸惑っているようだった。
「誰もいないどころか、あの樹に寄り付くのはあの子くらいで」
言われてみれば、確かにあの樹の下には人っ子一人いない。街のシンボルであるのなら、憩いの場となって人が集まっていてもおかしくなさそうなものである。
「あの樹は私達を監視してるんじゃないかって、そんな気がするんです」
女の指が何かを諦めたように力無く落ちる。
「どこに行っちゃったんでしょう·····」
消え入りそうな声だった。
私はメモを閉じ立ち上がると、女に向けて言った。
「もう少し街の人に話を聞いてみます。娘さんについて何か分かったらまた伺います。今日はお時間を頂き、ありがとうございました」
「あの子は不思議な子でした」
ドアに手を掛けた私に呟きが忍び込む。
「けれどもっと不思議なのは·····あの子がいなくなったのに泣けない、あの子がいなくなったのにあの樹に近づいてあの子の気持ちを知ろうともしない、私なんです」
「·····」
「私は、あの子は·····」
――なんだったんでしょうね。
女の言葉に応える術を、私はまだ持っていなかった。
遠くで葉擦れの音が聞こえる。
END
「揺れる木陰」
7/17/2025, 10:41:35 PM