「くらげを見に行こう」
もう外は静まり返って良い子は寝る時間なのに
唐突にあなたは切り出した。
「……くらげ?」
私はしかめっ面で見つめていた液晶から視線を上げると彼の目を見つめて怪訝な表情をした、
と思う。
「うん、くらげ。好きって言ってたでしょ?」
相変わらず突拍子もないことを言い出すものだな、と思った。
けれど彼の表情は大真面目で、どう傷つけずに断ろうか、しか私の頭には浮かばなかった。
「無理だよ、いま、忙しいの。ごめんね。ありがと」
私には今日中に終わらせなければいけない仕事が山積みなのだ。
だが彼にはなんとなく傷つけないように付けた
ごめん、も、ありがとう、も意味をなさなかった。
「忙しい?大人みたいなことを言うんだ」
ふーん、と、私よりも一回りも歳上の所謂「大人」が
大人らしからぬ拗ねた顔で私を見ている。
もうこうなったらダメだ、聞かない。
「……わかった、すぐ帰ってこようね」
私がここ数日しかめっ面でパソコンの液晶とにらめっこばかりしているから、気分転換でも、と思って誘ってくれたことはとてもよく分かっていたので、私は今困った顔をしているんだろうなと分かりつつも精一杯の微笑みを彼にプレゼントすることにした。
「それじゃ、さっそく!せっかく海の見える家に越してきたんだから、使わないと勿体ないよ」
さっきまでの表情と打って変わって今度はキラキラ目を輝かせて少年のような顔つきになる。
ああ、そうか、私この人のこういう純粋なところが好きなんだっけ、といつも思う。
軽く身支度を整えて外に出ると
じとっとした夏の暑さがまとわりつく。
「暑いねぇ……」
「そうだねぇ……」
どちらともなく呟くと、それでもしっかり手を繋いで私たちは歩き出した。
目の前に広がる海はここからだと街灯が邪魔して真っ暗な闇にしか見えない。
「飲み物持ってくればよかったねぇ…」
思い出したように彼がつぶやく。
「喉乾いた?コンビニ寄って買っていく?」
海とは逆方向に少し歩けばコンビニがある。
私の親切な提案はううん、大丈夫。はやく海見て帰らないと。仕事、中断させちゃってごめんね。
という彼の言葉で却下されてしまった。
「仕事のことなんていいのに、むしろありがと。酷い顔してたでしょ?」
と笑うと、実はね、こんな顔してた。
と眉間をぎゅっと寄せて
それはそれは酷い顔をしてみせてくれた。
「でも今は、いつもの可愛い顔になってる」
そう笑って彼は繋いだ手をぎゅっと握ってくれた。
海に着くと、月の光が波に反射してキラキラと光っていた。
砂が靴の中に入るな、帰ったらお風呂場直行だな、
なんてことを考えていると
「ねー、こっち」
彼が私の手を引いて私は危うく転びかけた。
危ないでしょーと声をかけると
ごめんね、と肩を竦めて笑う。
波がもうすぐそこ、足が波にさらわれないように気をつけないと、という所まで来ると
「くらげいないねぇ……」
と残念そうに彼がつぶやく。
「本当にくらげがいたら、刺されたら嫌だし、それに居ても暗いから見えないと思うよ?」
と笑うと彼はそれもそうか、と納得したように言った。
まさかこの人、本当にくらげを見ようと思ってたの?という疑問は湧いたが、まあそれはいいとしよう。
ちょっと休憩しようか、と言われ
波から離れたところに二人で腰を下ろす。
あー、もうこれで服の中も砂でじゃりじゃりになるかもー、とか思った自分がいたのは認める。
でも言わなかった。
この素敵な雰囲気の夜の海を壊さない方を選んだのだ。
グッジョブ、私。
しばらく私たちは二人で夜中にこの暑い中肩を寄せあって波の音に耳を傾けていた。
ああ、いい気持ち……
彼が連れ出してくれて良かったかもな、と目を閉じる。
「ねぇ……」
彼が沈黙を終わらせたことで私は目を開けた。
「なぁにー」
彼の肩に頭を預けるようにしながら返事をする。
「そろそろ、」
「そろそろ?」
帰ろうか、と続くと思ったが違った。
「そろそろ、結婚しようか」
え?なに急に。という私の疑問は口に出す前に解決した。
……そうか、今日は、日付が変わって2年目の記念日だったかな。
仕事に振り回されすぎていっぱいいっぱいで
忘れてたのは私の方か……
「そろそろって言い方がいや。そろそろ期限的に、そろそろしないと、に聞こえる。」
ちょっとめんどくさいかな、と思いつつも
せっかくのプロポーズだ。
もう少しロマンチックに頼みたい。
「……えっと、」
彼はこういう時、歳上のくせに、一回りも上のくせに、困ったように笑うんだ。
付き合った日もこんなだったっけ、と思い出が蘇る。
「…うん。」
私が優しくニコリと微笑みながら彼の顔をのぞき込むと一瞬びっくりした顔をして、でも、ちゃんと私の目を見つめて
「俺と、これからもずっと、一緒にいて欲しい。どんな困難があっても大丈夫……かは分からないけど、乗り越えたい。それに、初めて、ひとりでいたい時はあっても、会いたくない時はなかったな、と思えた人だから。だから、結婚したい。」
と言った。
その目は真っ直ぐで、
乗り越えようじゃなくて、乗り越えたいって言うところが、彼らしいな、なんて。
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「それでそれで!?ママはなんて答えたの!」
「ママはねぇ……やり直しって言ったのよ。笑」
「えー!!なんでー!!超いいじゃん!カッコイイじゃん!なんでダメだったの!!」
学校の宿題で自分の名前の由来を聞いてきなさい、という宿題を出されたおかげで、この話になって目を輝かせながら聞いていた娘が、信じられなーいと言ったふうに問いかけてくる。
「だってパパ、その時、鼻の上に砂、つけてたのよ。それも結構な量を。笑」
ええー!?!?あのパパが!?
と娘が驚いたように笑う。
「だってパパ、いつも仏頂面だし、なんでも完璧?主義だしさあ、この間なんてテストで……」
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こんな昔話、娘にきちんとしてやれるのも、
ちゃんとあの日、鼻に砂をつけて、私を笑わせてくれた彼のおかげだな、と思う。
あの後帰る前に緊張しすぎたパパが軽い熱中症になって、帰るの大変だったのよ、は、彼のプライドのために言わないでおこう。笑
「そろそろご飯できるから、宿題片付けておいで。それとこの話を聞いたのは、パパには内緒ね」
と肩をすくめてウインクすると任せてとウインクして宿題を片付けに行く後ろ姿を見送る。
とほぼ同時に
玄関のドアがガチャり、と音を立てた。
タイミングいいな、なんてふと思う。
もしかして盗聴器でもしかけていて、話し終わったから帰ってきた?
そんなわけないだろ、とひとりツッコミを頭の中で入れる。
カチャリ、という鍵を閉める音の後に
スリッパで廊下を歩く規則正しいパタ、パタ、という音が聞こえる。
リビングのドアがあくと帰ってきた彼と振り向いた私の目が合う。
「おかえり、パパ」
「ただいま」
疲れていても目を見てニコリと笑ってただいまを言ってくれるこの人と、やっぱり結婚してよかったな。
と思えた日になった。
あとで娘ちゃんにありがとうを言わなくちゃ。笑
Fin
8/15/2023, 9:56:16 PM