シュグウツキミツ

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足音

は、と気がついて振り返った。
足音がする。
どういうことだ?
足音がしていたことに今気がついたのだ。それがおかしい、と。
足音がすること自体はすこしもおかしくない。ただし、普通の場所ならば。
いま僕は船の上にいる。1人用のプレジャーボート。明石池に船を浮かべて魚を釣ろうかと係留している。
つまりここは池の上である。
足音は、どこで鳴っている?船、はありえない。僕しか乗っていない。船の上には釣り具はあるが、ボートのトランザムボートに船外機がある単純な作り。船の上は全て見渡。せる。足音を立てるものなんてどう見てもいない。
ならば……池?たとえそうであっても、この足音はまるで板の間を歩いてくるようではないか。足音は大きくなってきている。どんどん近づいてきているらというこたか?それに伴い、足音のたびにカチャカチャと何かが硬い床に当たるような音も聞こえてくる。
池は霧で覆われていた。ようやく日が昇り、気温が上昇してくると、池からの水蒸気が増えてくる。海霧と同じ原理だろう。ここは池だけど。
ともかく、霧で視界もあまり効かない。静まり返った池の上で、足音だけが近づいてくる。
釣り糸がひかれ、竿がしなるが、それどころではない。僕は足音が聞こえる方から目が離せない。
やがて。
足音と共に、荒い息遣いまで聞こえてきた。ハッハッハッ、同時に匂いもしてくる。嗅ぎ覚えのある匂い、これは、どこで。
やがて霧の中から黒いものが飛び出した。その付け根の茶色っぽいものも。そう思うまもなく、ぬ、と顔が出てきた。
犬、それも、ロジャー!五年前に死んだ、レトリバーとコリーのミックス。タレ目と鋭いマズル。その頭をよく撫でていた。
驚くとか怖いとか、そういうことを感じる間もなく、僕は手を伸ばした。
マズルから額へ。額から耳の付け根へ。頭、首、肩。ああ、この感触。しばらく忘れていた感触が蘇る。
ひとしきり撫でて気が付く。ここは池の上だ。おい、ロジャー、お前、何処から来た?
ロジャーが顔を上げ、彼が来た方へ振り向く。ロジャーの頭越しに見ると、プレジャーボートとグッタリと倒れ込んでいる男。僕だ。
あれ、それじゃあ僕は、今いるこの僕は。
ロジャーは僕を振り返り、舌を出して息をする。ハッハッハッ。
ああそうか。お前が迎えに来てくれたんだな。一緒に行こう。

「この池はなあ、よく人がいなくなるんだよ、神隠しっていうの?子供の頃から、爺さんや婆さんに、あそこには近づくなって言われるんだけど、新しく来た人はしらないんだろうなあ……」

8/19/2025, 9:48:38 AM