池上さゆり

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 彼はいつだって夢追い人だった。高校生の頃からアコースティックギターを持って、中庭で弾き語りをしていた。毎日違う曲が中庭から響いていた。大きな声で悲壮を叫んでいる日もあれば、切ない声で愛の歌を歌っていたこともあった。
 ある日、私は彼が歌っていた歌詞の一言に救われた。今じゃ、どんな言葉だったのかも思い出せないけど、苦しさを和らげてくれる優しい言葉だったのだけは覚えている。それから仲良くなろうと声をかけて初めて、彼が先輩なのだと知った。
 卒業の日まで毎日そばに駆け寄っては曲の感想を言っていた。最後の日になっても、私は告白する勇気が出せず最後の演奏を聴いていた。愛の歌だった。
「君が去っていく影すら愛おしい もう会えなくなるのなら僕が続く道を作らなきゃ」
 そんな感じの歌だった。それが私に向けられたものだとは気づかなかった。
「きっと僕は君の理想の彼氏にはなれない。それでも、退屈だけは絶対にさせないから付き合ってほしい」
 詩的な告白に私は頷いた。
 それから十年以上経って、私たちは三十歳を過ぎてしまった。彼はまだ夢追い人だった。結婚に憧れていた時期もあったが、とうに過ぎてしまった。私は家族がほしい。好きな人との子どもがほしい。でも、それが今の好きな人と叶わないのなら諦めるしかない。
 だから私は、音楽を愛する彼に向けて詩を書き残した。
「私が去っていく影を君はいつまで見ているのだろう もう続きのない道だって気づいたから 大好きな君にさよならを告げようか」
 それだけ残して私は家を出て行った。連絡先も消した。音楽だけで過ごしてきた私たちの間に、生身の言葉はいらなかった。

3/4/2024, 10:54:03 AM