「先輩、ほんとにいなくなっちゃうんですか」
「さみしーい」
放課後の美術室。三月で卒業する先輩を囲んだ女子部員たちが口々に言う。
わが校の美術部は男女比が二対八。そんな圧倒的女社会において、やさしくて頼りがいがあって絵が上手い彼はみんなの憧れの的だった。とくに絵が好きというわけでもない私が入部を決めたのだって、新入生歓迎会の部活動紹介で見た先輩の作品がきっかけ。なんてきれいな青を描く人なんだろうと思った。
引っ込み思案の私は結局、ひと言だって話しかけられなかったけれど。
「これ、みんなで書いた寄せ書きです」
ありがとう、先輩がにっこり笑って色紙を受け取る。それを私はぼんやりと見ていた。
色紙はひと月前から部室に置かれていて、誰でも自由に書き込めるようになっていた。受験を控えた三年生はもう引退していたけど、面倒見のいい先輩はしょっちゅう立ち寄るものだから、そのたびにごまかすのが大変だった。
自由に、と言いつつたいていは華やかなグループの子たちが取り囲んでいて、ようやく私が色紙を手にしたのは渡す前日のそれも放課後になってのこと。
誰の目にもふれるものだからめったなことは書けないけど、せっかくだから印象に残りたい。真っ先に浮かんだのが先輩の絵だった。あの青と同じ色でメッセージを書いたらどうだろう。頭には、前にテレビで見た「誕生色」のことがあった。
誕生日にはそれぞれ色が当てはめられていて、花言葉や石言葉と同じくその色にも言葉があるらしい。先輩の誕生日は八月十日(直接聞いたわけじゃない、部の子たちが話してるのが聞こえてきたのだ)、誕生色はハイドレンジアブルー。色言葉は「芸術、才能」だって。まさに先輩にぴったりじゃないか。
めったなことは書けない、だけど、最後くらいは記憶に残るようなことを。
ドキドキしながらふたつ折りの色紙を開いた。シンプルに「ご卒業おめでとうございます」だけのメッセージもあれば、美術部らしくイラストを添えたメッセージもある。歌の歌詞を書いている子もいる。ちょっとはしたないかなと思いつつもみんなの寄せ書きをざっと見て……愕然とした。
書くところが、ない。
ギッチリという形容詞がぴったりなくらい、色紙は贈る言葉でいっぱいだった。
考えてみれば当然かもしれない。先輩は人気者だし、もう期限はギリギリ、色紙はそれほど大きくない。でもそれにしたって、まだの人のためにスペースを空けておいてくれてもいいのに。どうしよう。まさかほかの子のメッセージにかぶせて書くわけにもいかない。
あれこれと言い回しを考えて。百人一首から歌を写そうかな。あの青が絵の具で上手く作れるだろうか。字が変になったらどうしよう。悩む時間はそれでも楽しくて。少しでも先輩の目に留まってほしいから。
まさか、物理的に書けないなんて、夢にも思わなかった。
……というような話を居酒屋で、職場の先輩相手にもう二時間も聞かせている。自分がこんなにお酒に弱いとは知らなかった。迷惑極まりない、もう切り上げないと、頭ではそうわかっているのに止まらない。中学高校の部活の話で(節度をわきまえて)盛り上がっていたはずなのに、いつのまにやら私は立派な酔っぱらいと化している。
「もう泣くなって」
「だって、だってあんまりじゃないですか。これで最後なんだから、勇気出して伝えなきゃって、思ってたのに」
「『ずっと好きでした』って?」
「茶化さないでくださいよお」
思い出したら余計に悲しくなってきた。もう、ピカソの泣く女並みにひどい顔をさらしているに違いない。自己嫌悪でいっそう涙が止まらない私に先輩が差し出してくれたハンカチは、きれいな青色をしていた。
(どこにも書けないこと)
2/7/2024, 7:21:10 PM