たぬたぬちゃがま

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かつん、と音が響いた。
牢の中にいる、私。外から見ているのは、あなた。元、婚約者。
響いたのは帯刀していた剣の鞘が石畳を叩いた音だと、ぼんやり考えた。
「寝ているのか?」
寝てはいないけど、動けないですね。そう言おうとしたけど、私の口からは掠れ声すら出なかった。何も食べず、何も話さず、会ったこともない兵士に戯れに遊ばれて。
父は、弟妹は、どうなっただろうか。亡き母の縁をたより、弟妹たちはまとめて国外に出すのが精一杯だった。
父の不正を正すにはこうするしかなかった。自分も逃げる余裕などなかった。
「死ぬのか」
死ぬと思います。生かす理由がどこにもないので。ぱくぱくと口を動かすが、相手に伝わっているかわからない。
口を動かすのが精一杯だ。もうじき、口すらも動かせなくなるだろう。いっそその剣で喉元を貫いてくれないだろうか。
「……なぜ、裏切った?」
じゃないとあなた死ぬでしょう。婚約者なんだから。私の敵じゃないと生き残れなかったわよ。
口は動かさなかった。大切な人を守るために自分の全てを捨てた。それだけの話だ。
「答えろ!!!」
石畳に剣が打ち込まれた表紙の鈍い金属音は決して小さい音ではなかったが、私の反応を呼ぶには足りなかった。
ここに来れたということは、彼の家はなんとかなったんだろう。よかった。彼を救えてよかった。
ふ、と口角をあげた。彼がなにか叫んだけれど、もう何も聞こえなかった。

あぁ、なんて幸せだ。大好きよ。愛してる。あなたに会えるなんて、神様はなんで優しいのかしら。
この気持ち以外はもうなにも理解できなかった。彼の顔がなぜ濡れているかなんて、わからないまま。
でもきっと、忘れないわ。この気持ちは忘れないわ。

—————————

「……死んだのか」
ついに彼女の本心を知ることはできなかった。
彼女は悪女として名を馳せた。それでもふとした瞬間見せる顔は、昔見せてくれた顔のようだった。
そして、死ぬ間際のあの顔も。大好きだよと伝えあった、幼い日の記憶が蘇る。
ぼたぼたと涙が頬を濡らす。彼女を裏切ったのは自分なのに、先に裏切られたからと棚上げして傍観者を決めたのは自分なのに、吐き気と嫌悪感が止まらない。手足が痺れて、見えないなにかに心臓を直に掴まれているような感覚。
なぜだと頭で叫ぶ自分がいる。半身をもがれたかのように悲痛な叫びをあげている。
これまで彼女がされてきた蛮行に怒りと絶望が湧き出てくる。
そっと彼女を抱え、シーツに包んだ。おそらくこのままでは丁重に弔うのは不可能だ。どこかの娼館から似た女の死体を持ってくるなどして調達してくる必要がある。めぼしい女を見繕いながら、自嘲する。これをなぜ、彼女が生きている時にしなかったのか。できなかったのか。

あぁ、きっと幸せなんだ。やっと、やっと彼女が逃げ出さずに手の中にいるから。たとえ目や口が2度と開かなくても。
きっと忘れない。君の目も、声も、表情も。
きっと忘れない。もうあなたを手放さないから。


【きっと忘れない】

8/21/2025, 9:39:02 AM