あなたがいたから(想いは死なない)
―――朝のラッシュアワーに急かされるように歩みを進める。
スーツにネクタイ、この時期は何かと蒸して暑苦しく着心地も最悪だ。
俺は歩道橋を渡り、信号で立ち止まる。
『いいんだ?』
真夜中のビルの屋上。
心許ない足場に立つ俺から然程離れていない場所で、足を組んで腰掛ける―――青年がひとり。
人外であることは瞬時に理解した。
………心底どうでもよかったが。
『見るも無惨になると思うけど、大丈夫そう?』
何気なく話しかけられた。
人と普通に会話できるのかと妙に感心する。
『それを心配するくらいなら、最初からここには立たないだろうと思うのだが?』
『………まあそうだね』
そいつはポケットからタバコとライターを取り出し、何食わぬ顔でそれを吸い始めるのだからさすがの俺も面食らった。
『人がこれから最期の瞬間を迎えるんだ。お前が何者か知らないが、そういうのは遠慮するのがマナーじゃないか?』
『あー………、ごめんごめん。どうしても手持ち無沙汰でね。すぐ悪い癖が出る』
特に悪びれる様子もなく肩を竦める彼に、俺は心底辟易する。
来る場所を間違えたと心から思った。
『そうするに至った理由を聞いても?』
『それに何の意味がある?』
『………つれないなあ』
苦笑するのが伝わってくる。放っといてくれ。
『―――過去も未来も、もういいの?』
『うん?』
『俺の受け売りなんだけど。過去と未来の自分に、今死んでもいいかって聞いてみる、っていうの』
『………。面白いことを言う』
幽霊に引き止められるとは思わなかった。
早くしろと背中を押されるものと思っていたのに。
『………それはもう全部捨ててきた』
―――脳裏を掠める家族の面影。
幸せだった頃の笑顔が容赦なく俺の胸を抉る。
俺はじり、と僅かに体を宙に寄せた。
『まあいいんだけどさ。勿体ないね』
ちらりと俺を見て、青年が声を上げる。
『勿体ない? ………生きようと思えば生きられるのに、か。嫌味だな』
『違うよ。あなたの握ってる、その柵の手』
『手?』
これが何だ、と俺は青年を見る。
『大勢のあなたの過去と未来の人達が、その柵を握るあなたの手に手を重ねてる』
『………。何を、馬鹿な』
『死なせたくないんだね、きっと』
―――俺の手に?
訝しげにまじまじと眺めてみるも、何も見えはしないし感じない。
『………信じないなら信じないで構わないよ。そのたくさんの手を振り解いて飛び降りればいい』
『………』
『あと正面で抱き締めてる奥さんと、背後から抱きついている娘さんも』
!!―――
『全部振り切って』
『………。まだ俺に………生きろって?』
『そうみたいだね』
『―――酷なことを言う。生前から変わってない。無茶で我儘で、振り回されてばかりだ』
『………辛いけど、愛おしいね』
愛だね
―――記憶はそこで途切れた。
気づいたらビルの真下で呆けたように立ち尽くしていた。
「………暑いな」
掌で風を送りながら、俺は青に変わった交差点を歩いていく。
―――夢のようなそうでないような、けれど鮮明な。
“愛だね”
―――ふと振り返る。
人混みにビルの屋上で見た、あの青年がいたような気がした。
俺は暫くそのまま佇み、………また再び歩き出した。
END.
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6/21/2024, 6:49:51 AM