→短編・黎恩庭先生、小箱を買うこと。
高校教師の黎先生は、中山路の一角に立つ朝市を毎週末訪れている。食材、軽食、おもちゃに日用品などが並ぶ露店は、いつでも目新しい発見があり飽きることはない。
屋台で朝食を済ませた黎先生は古馴染みの店へと向った。
朝市の外れに天幕を張るその店は、雑多なものであふれている。砂漠の民の水筒や底がすっかり焦げ付いた鍋、錆びた取っ手に壊れたドアノブ……、売り物なのか廃品回収品なのか判断しづらい品物に埋もれるように座っていた店主は、黎先生の姿に相好を崩した。
「いらっしゃい。面白いもんを手に入れたよ」
店主は黎先生の手のひらに年代物の小さな包みを乗せた。油紙に包まれた小箱のようだが、分厚いシーリングスタンプが開封を阻んでいる。
「封蝋は剥がしてないのかい?」
「老師、こういうの好きでしょ?」
長年の付き合いですっかり好みを把握されている。黎先生は耳元で小箱を振った。カタカタカタ……。
「虫の死骸か、はたまた翡翠か……」と黎先生。
「子どもの乳歯なんてのもありかもね」とおどける店主。
そんな二人の雑談は、店主の淹れた茶を飲みながらもう少し続いた。
夜、黎先生はブランデーグラスをお供に、小箱の検分を始めた。机の上に置いた洋燈の揺れる灯りのもと、丁寧にシーリングを剥がし、固くなった油紙を破かないよう注意を払って包みを開ける。
現れたのは小さな蝶番のついた木製の箱だ。おそらく何十年ぶりかに油紙を取り払われ、突然の外気に慌てているのではなかろうか? ブランデーの酔いに任せて思い浮かんだメルヒェンな想像に、黎先生は苦笑をこぼした。
怖さと好奇心を波のように心に漂わせ、何となく息を止めて蝶番を外し、試験管の試薬を嗅ぐように少し顔を仰け反らせてこわごわ箱の中身を覗き込む。
底の方に1枚の小さな破片のようなものが見えた。
「……貝殻?」
拍子抜けした声とともに肩から力が抜け、自分が思った以上に緊張していたことを知った黎先生は、途端に気が大きくなり、気軽に小箱を傾けた。コロンと手のひらに貝殻を落とす。
薄ピンク色のその貝殻には、桜の花のような模様がついていて、何とも可憐である。
もっとよく見たい。黎先生が貝殻を摘んだ瞬間……――パチン!!
「あっ!!」
貝殻は弾けてピンク色の煙となり巻き上がり、渦を巻いて桜の花を模した。しばらく天井に留まっていたが、やがて霧散した。
つかの間の幽玄は黎先生の瞼に焼き付き、瞳をとじても桜は消えずにあり続けた。
後日露天商の店主の調べで、この貝殻は網膜刺青という西域地方の古い文化だと判明した。網膜に焼き付いているので一生消えないらしい。特に重罪人に罪の意識を忘れないよう罪状を網膜に焼き付けたとのことだ。
店主はしきりに謝罪したが、黎先生は呵々大笑した。
「気に病むなよ。これが知らん人の罪状なら僕も弱っただろうけれどね。桜だよ。目を閉じれば花見気分を味わえる。しかも混雑とは全く無縁」
最近の黎先生のお楽しみは、毎夜ブランデーを片手にひとり花見を楽しむことだという。
テーマ; 瞳をとじて
〜1/22テーマ・あなたへの贈り物〜
『桜模様の貝殻』
1/24/2025, 6:32:47 AM