『落ちていく』
今日も来てしまった。唯一の楽しみである昼休み。オフィス近くの、広いとも狭いとも言えないような公園。端のほうにある小さな四阿に足を運ぶ。滅多に人が立ち入らないのであろうか、薄暗く、蔦が覆いかけている。
今日もそこに座っていた。病院着を身にまとう女性が。
スケッチブックを膝に乗せ、おもむろにペンを走らせている女性が。
「こんにちは...」
「どうも...」
素っ気ない挨拶を交わし、腰を掛ける。華奢なシルエットを横目に、今日も眠りに落ちていく...
嫌なことをすべて忘れられるこのひと時。
目が覚めると、いつも彼女の姿はなかった。
一週間前から始まった、この不思議な昼休み。何か話すわけでもなく、ただ同じ空間を共有する。
その、半非日常感を静かに楽しんでいた。
来る日も来る日も、いつもの場所へ足を運んでは、素っ気ない挨拶を交わし、彼女を横目に眠る。今考えれば、かなり変なやつだ。でもそれはお互い様だったのかもしれない。
ある日、眠りから覚めると、いつも通り彼女は居なかったが、そばに小さな紙切れが置かれていた。
「ボタンが解れてますよ」
小さく丸っこい字で書かれていた。
見ると確かに解れている。直してくれる"カノジョ"が、まだいればなぁ。もしかしたら、今頃夫婦になってたかもなんて空想に浸り、虚しくなる。
次の日、また目を覚ますと、紙切れが置いてあった。
「今度、一緒にご飯でも行きませんか」
正直驚いた。まだ、ほとんど話したこともないはずなのに、いきなり誘ってくるなんて。
もしかしたら...
淡い期待が脳裏を過る。
しかし、その期待は、あっという間に砕かれた。
また次の日、また紙切れを拾い上げる。
「いつか、一緒にご飯行きませんか」
やっぱりそうだよな...
彼女は記憶を失っていた。毎日の記憶を。
抜け落ちているのだ。その日あった出来事が何もかも。
彼女にしてみれば、僕は毎日初対面の相手なんだろう。
初対面の相手を、いきなりご飯に誘うなんて、勇気のある人だ。
やっぱり変わらない。不器用で大胆なところ。
彼女の記憶に残ることはもうないのか。
非情な現実を突きつけられ、声を押し殺して涙を流した。
数週間前のあの日から、もう動くことのない時計の針を眺めているようだ。
共に刻んだ数年の 思い出 が、底のない沼へ落ちていく。
そんな"カノジョ"を横目に。
11/24/2023, 8:37:25 AM