『愛と平和』
目を覚まして最初に視界に入ったのは、ベッドの中で電子マンガを読み耽っている彼女の姿である。
寝室に携帯電話は持ち込まない主義の彼女だ。
手にしているのは、おそらく俺の携帯電話だろう。
当たり前のようにパスコードを解除され、悪びれることなく画面を指でスワイプさせていた。
ずいぶんと太々しくなった小さな背中に、そっと頬を寄せる。
「こんな時間まで寝ているなんて、珍しいこともあるんですね?」
ピクリと小さく肩が跳ねたが、思いのほか、彼女はマンガに夢中になっているようだ。
振り返らないまま、彼女は傲慢に鼻を鳴らす。
「失礼な。朝食とかストレッチとかシャワーとかで何回か起きてますー」
怠惰に休日を過ごす彼女なんてめったにないのだ。
このあと急転直下、天気が崩れて雪が降るに違いない。
「二度寝なんて、それこそなかなかないことじゃないですか」
「洗濯はいつも通りしてない」
3月に入り少しずつ暖かくなってきたとはいえ、まだまだ水は冷たいし乾燥も激しいのだ。
あの小さくてかわいらしい爪が傷ついたり、指先が荒れてしまっては大変である。
「それは、本当にしなくていいです」
「んふふ。好きー」
「あの」
せっかくの彼女の告白だというのに、電子書籍を眺めながら言われたせいで、ありがた味が希釈された。
「それは、俺の顔を見てから言ってくれません?」
背後から携帯電話を取りあげて、そのまま彼女を抱きしめる。
「ぐぇ。苦しい」
「好きなクセに」
「うん。好き」
「……」
だから。
さっきから、そのかわいさはなんなんだ。
さっさとそのかわいい顔を見せろ。
「でも、苦しいのは本当」
「しかたのない人ですね?」
望み通り、彼女の腹に回した腕の力を少し緩めた。
ゆっくりと彼女が寝返りを打ち、俺のほうへと向き直る。
ふわりと甘い香りが鼻腔をくすぐった。
一緒に暮らすようになって同じ柔軟剤を使っているのどころか、シャンプーやボディソープまで彼女と合わせているのに、彼女の香りはいつも幸福感を満たしてくれる。
振り返った彼女があまりにも真っすぐ、瑠璃色の澄んだ瞳で、俺を捉えた。
見つめ合う甘やかな休日を楽しむほど、俺は堪え性がない。
彼女に触れたくて手を伸ばしかけたとき、彼女が口を開いた。
「好き」
静かに放った彼女の言葉は、じゃれ合いとして受けとめるには温度が高い。
「俺も、愛していますよ」
だから、俺も彼女と同じ熱と、それ以上の湿度を込めて返した。
「ふふっ」
満足気に笑みを刻んだ彼女は、足先を俺の足に絡める。
縋るように俺の背中に回された両腕や、乞うように胸元に頬を擦り寄せた彼女に、俺は生唾を飲んだ。
「もしかして、俺、誘われてます?」
「ん」
少しはにかみながら、しかし、しっかりとうなずいあと、彼女は俺の唇に自身の唇を重ねた。
深くはない、リップ音すら立たない、奥ゆかしい口づけを何度も重ねられる。
彼女の唇に熱が籠り、しっとりとした吐息が混ざり、わずかな水音が溢れた。
衣擦れや呼吸とは質の異なるそのリップ音は控えめな音であったはずなのに、やけに耳奥で響いて理性を揺さぶられる。
「ちょっ、と。それは、……さすがに煽りすぎです……」
「ダメなの?」
不満気に尖らせた彼女の唇から目が離せない。
彼女は真面目で高潔だ。
俺なんかを伴侶にするには、もったいないくらいの高嶺の花である。
普段であれば、こんな昼間に俺の爛れた欲を受け入れるようなことはしないはずだ。
それがどうしてか、今日は彼女から俺を求め、率直な言葉を紡ぎ、甘えてくる。
これに抗うとか無理だろっ……!
遮光カーテンで日差しを遮り、寝室の明かりを消して、かけている眼鏡を手放したとしても、昼という時間帯は彼女の輪郭をくっきりと捉える。
そんな彼女に一度でも触れたら、絶対に止まれない確信があった。
だからこそ、どうしようもなく掻き立てられてしまう熱に、素直に身を委ねていいものかためらってしまう。
俺にとっても彼女にとっても、これはある種の予防線でもあった。
人の気も知らず、呑気に拗ね散らかしている彼女の頬を撫でる。
「愛と平和の均衡が崩れます」
さっきまで色めいていた彼女の艶やかな表情が、一気に緩む。
雰囲気も熱もなりを潜め、ポカンと俺を見つめたまま瞬きを繰り返した。
「…………なにそれ?」
「あなたのことが愛おしくて愛おしくてたまらなくて、おかしくなりそうってことです」
彼女の手に俺の指を絡めて、ベッドのシーツに縫いつける。
「大丈夫」
小さく細い指で俺の手を握り返しただけでなく、手の甲に顔を寄せた彼女はそのままキスを落とした。
は?
ツップンと、理性の糸が千切れていくのを自覚する。
「れーじくんの様子がおかしいのはいつものことでしょ?」
彼女は煽惑的に笑みを浮かべながら、俺の手の甲に甘噛みして煽り続ける始末だ。
まったく。
人の気も知らないで、好き勝手してくれる。
腹を括るために大きく息を吐いたあと、彼女を見下ろした。
「……ちゃんと、忠告はしましたからね?」
シーツの上に押し倒した彼女の体の上に体重を乗せて、密着度を上げる。
無防備な耳朶の裏に赤い痕を残せば、艶のある声がベッドに舞った。
「ふっ、かわい」
もうひとつ、今度は首筋に品のない水音を立てる。
そして、先ほどから焦ったくもどかしい刺激を与えてくる薄い桜色の唇を、深くさらっていった。
3/11/2026, 6:26:32 AM