上手くいかなくたっていい
仕事を辞めた。長く大手引っ越し会社で働いてきたが、腰を悪くして治療で通っていた病院の先生にも、「これ以上、無理は出来ませんね。」と。
知り合いのつてで、先月まで飲食店だったお店が閉まり今なら居抜きで安く始められると紹介された。
駅近で立地も良い。
大学生の頃、飲食店で厨房も接客もレジ締めも経験がある俺は、これはチャンスかも知れない…と、妻に相談する前に即決していた。
夜泣きをする長女をあやして、リビングのソファーに腰をおろした妻に冷蔵庫のルイボスティーをグラスに注いで渡した。
「ありがとう。夜泣きも大変だけど…これも成長のあかしらしいね〜あともう少しの辛抱かなぁ。」
実は…と、例の飲食店の話をしたら、少し間があってから「いいと思うよ。あなた昔、自分のお店持ちたいって話してくれたことあったものね。」
倹約家の妻が、コツコツと貯めてくれていたまとまったお金を嫌な顔ひとつせず通帳ごと渡してくれた。
それからが、大変だった。
いくら居抜きとはいえ厨房の掃除やら古いレジの入れ替えや、クロスの総張替え、食器の調達、食材の仕入れ先の確保、スタッフの募集に面接、飲食店に必要な資格は2つとも持っていたのは自分でも幸いしたが、保健所や消防署など行政機関への届け出などでお店のOPENまで、体がふたつ欲しいと何度も思った。
この店が、潰れることになったら…俺達家族は…と不安もよぎった。
青ざめて目にくまもできた顔で、妻に、素直にそのことを話した。彼女は言った。
「そんなに。頑張りすぎなくていいよ。私はいつだってなんとかなると思って生きてる。お店だって繁盛するに越したことはないけれど、上手くいかなくたっていいじゃない!」
ずっと重くのしかかっていたものから、解放されて不覚にも涙を流していた。
妻の優しい言葉が有り難かった。救われた。
この店に人生をかけよう!と意気込んでいたけれど、今は肩の力を抜いて、なるようになるさと失敗を恐れたりしない。
目の前が段々と明るくなる気がした。
最近、ケラケラと大きな声を出すようになった長女の心乃葉がケ・セラ・セラと笑ってるように見えた。
OPENまでは後少しだ。
家族が俺の背中を優しく押してくれた午前3時。
残暑の厳しさからも抜け出して、秋が少し顔を覗かせた。
8/9/2024, 10:22:28 PM