暁野スミレ

Open App

『アリスになりたかった』 テーマ:落ちていく

 覚束ない浮遊感。灯りもないのに、やけに明るい穴の中を落ちていく。
 顔に張り付く髪の毛が不快でしょうがなくて、とにかく梳かそうと、壁に掛かっていた櫛を咄嗟に手に取る。
 持ち手に剝げかかった猫のシールが見えて、一気に自覚した。

 これは、夢だ。

 分かってみれば、ちぐはぐ過ぎて笑えてくる。大穴を落ち続けている状況すら変なのに、その壁に実家の櫛が掛かっているなんて、めちゃくちゃだ。
 おまけに、夢の解像度も決して高くない。周りの景色も、自分が着ている服さえ判然としない。ただ、穴を落ち続けている。

 『不思議の国のアリス』だ、とふと思った。
 脈絡のない思考だ。まあ、夢の中の思考なんて脈絡のないものだろう。
 それにしても、アリスか。旧友の名を聞いたような、感慨深い気持ちだ。

 確か幼い頃に読んだ。少女が兎を追って、穴に落ちて、不思議の国で冒険を……。
 いや、そうだ。アリスなら、もっといろいろあるだろう。身体が大きくなったり、縮んだり。お茶会やら裁判だってあったはずだ。
 夢に出てくるシーンが、よりにもよってここなのか。

 まあアンタの夢なんて、そんなもんだろうね。

 母親が突然横に現れ、平然とした顔で言う。夢にまで出てこないで欲しい。
 文句を言おうとしたが、口を開いても声が出せない。
 記憶よりも妙に若い母親が、薄笑いを浮かべている。

 それなりに生きてきたつもりだろうが、アンタは結局鬱屈としたヤツなんだよ。
 だから、夢もこんなになっちまうんだ。

 嫌なことを言う。母親はこんな悪意に満ちたことを言う人では無かったはずだ。
 いや、果たしてそうだっただろうか。足元がぐらぐらする。そういえば、落ちているんだった。

 心配しなくても、すぐ目は覚めますよ。ほら、もう朝だ。

 今度は帽子を被った男が現れた。もしや、あの帽子屋だろうか。よく顔を見ると、しばらく会っていない同期の顔だった。
 気味が悪い。所詮この夢は記憶の切り貼りなのだと見せつけられた気分だった。
 帽子屋の男がまた、何かを言おうとしている気がする。やめてくれ。早く目を覚ますから、それでいいだろう。そもそも、何だってアリスの夢なんか見たんだ。

「俺は、男だろう」

 階段を踏み外すような、がくっとした感覚で目を覚ます。
 薄暗い天井。時計を見ると、朝の4時半だった。ついさっきまで見ていた夢の内容がもう思い出せない。思い出せないのに、心臓が痛くてしょうがなかった。

 アリスになりたかった、のかもしれない。

2024.11.24

11/23/2024, 4:48:47 PM