「宝石店シヲン」はうら寂しい路地の中、ひっそりと営業していた。
店内にはゆったりしたジャズが流れ、店主が燻らすパイプの煙が薄らとたなびいている。
カラン、とベルが鳴った。
「ごめんくださいまし」
縮緬の着物に西洋風のパラソルを合わせた綺麗なご婦人だった。しかしその美しい眉は僅かに顰められ、額に垂れたほつれ毛が彼女の苦悩を表しているかのようだった。
「これはこれは、ようこそいらっしゃいました。どんな宝石をお探しで?」
「あの……こちらでは宝石の加工もされているって伺って参りましたの」
「おやおやそちらをご希望でしたか。勿論承ってますよ。それで、どんな石をお持ちなんでしょう」
店主はにっこりと愛想のいい顔をして、婦人に椅子を勧めた。
勧められるままカウンターの前に腰掛けた婦人は、小さなカバンの中から小さな石を取り出して、コトンと店主の前に置いた。
「加工していただきたいのはこのサファイアですの」
それから婦人は、その石にまつわる話を切々と語った。
ことの顛末はこうだった。彼女はとある子爵の娘で、直に結婚を控えていた。しかし彼女は偶に家にやってくる医者見習いが好きだった。彼は子爵家のお抱え医の甥で、小さいときから病気がちで友人の少なかった彼女とよく遊んでくれたのだそうだ。
一緒に庭でお茶会ごっこをしたり、川で船を漕いだり、幼い彼女にとってそれは宝物のような記憶だった。
しかし彼女は子爵家の一人娘で、然るべき家から婿を取るのは必須だった。
だから彼女は昔に彼から貰ったサファイアを二つに分けて、片方には幼い恋心を、もう片方には美しい記憶を込めようと思ったのだそうだ。
「恋心の方は差し上げます。私には自由にできるお金がありませんので、どうかそれを代金だと思ってお納めいただけないでしょうか」
「もちろんそれはよろしいのですがね、その医者見習いと二人で逃げてしまうのはいけないんですかい?」
言ってしまってから彼女の悲壮な顔を見て、店主はしまった!と思った。しかし放った言葉は帰ってこない。あれこれ言葉を重ねて取り繕おうとする前に、彼女が口を開いた。
「私の父は、私が華族でない方と結婚することなど決して許しません。それに、私の家は彼の家系の雇用主なのです。どうして私の身勝手で、彼の家族を路頭に迷わせられましょう」
だからこの想いは存在してはいけないのです。そう言った彼女の顔は哀しげだったが、目だけは覚悟を決めた人間のそれだった。
「それなら私は喜んでその仕事をお引き受けしましょう。加工は一週間程かかりますから、出来上がる頃またいらしてください」
店主はそう言って、婦人を外まで案内した。
それから一週間後、彼女は店にやってきて美しいパパラチアサファイアのイヤリングを片方受け取った。彼女は少女のような顔でこれを喜び、去っていった。
残されたもう片方のイヤリングは、ビロード貼りの箱に綺麗に入れられて「宝石店シヲン」のショーウィンドウで光っていた。
お題「失われた時間」
5/14/2024, 7:54:07 AM