あっ、と部下が声を上げた。
今度は何だ? さっき饂飩を食わせてやったろうが。食い物の名が出たら落としてやろうと、無言で拳の準備をする。
案の定ぐいと袖が引かれ、耳打ちと言うにはでか過ぎる声が耳元で俺を呼んだ。
『ほら、あそこ! あの女ですよ!』
… " あの女 "。無遠慮なその言葉に思わず息が詰まる。通りを挟んで向こう側の店先で、一人の女が上体を屈め商品を覗き込んでいた。藍色の小袖袴、耳の下あたりでぱつりと切り落とされた髪。部下に、ヘボのくせによく気付いたなと言いたくなるほど、前に見た時とは様子が変わっていた。
『顔怖っ… ちょ、どうしたんです?』
口数の多い部下にうるせぇ、と返して黙らせる。あの夜の怒りと屈辱は、夜毎繰り返し、ひたすら俺の中で煮えていた。
俺に拐われた時ろくな抵抗も出来ずにいた女。てめぇでてめぇの身も守れない… そんな女の情けで生き延びた、自分。
女が、顔に落ちてくる髪を耳に掛ける。だが長さが足りないせいで、すぐにまた落ちてくるようだ。苦笑する女の顔から目を背け、背負箱を担ぎ直して歩き出す。女と俺を交互に見ていた部下が、待ってくださいよ!と慌てて追ってくる。
『… あ、痛ぁっ!!!』
背後から上がった声に仕方なく振り向くと、地面に転がった部下に、よりによってあの女が駆け寄っていた。
… 子供か、お前は!!!
しどろもどろで礼を言う部下に、女はいえいえ良いんですよと明るく笑った後、無事で良かった、と呟いた。
『良い人でしたねぇ!… なんか悪いことしちゃったな。』
街道から裏道へ入ると部下が言った。のほほんとしたその言葉に、今度こそ固い拳骨を落とす。
その拍子に、懐から小袋がぽとりと落ちた。守り袋を模したそれには、あの女の髪が糸のように巻かれて入っている。
【眠れないほど】
12/6/2023, 9:17:37 AM