明日にはいない人

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昨日のお題は「1年前」で、今日は「未来」か、、。

また本の話になってしまうが、中国のSF小説をまとめたアンソロジーを読んだことがある。その小説では多くが「未来はすでに決められている」という深層心理のもと書かれていた。中国ではそういう思考が一般的なのだろうかと不思議に思った。

未来がすでに決められているとしたら、私はなんの努力もしなくても良いということになる。何もせずに何もなせずに死んでゆく。それが私の未来として決められていたことになる。

努力しても、その結果はすでに決められていたということになる。

なんだか、横暴な理論に思えてきたな。結局、結果論じゃないか。

けれど、未来は変えられる。未来は自分次第だなんて無責任に言われるのも嫌いだ。

人間以外の動物には未来や過去という概念は持たないと言われている。クマは冬眠前に食料をたくさん食べておくし、リスは冬になる前に食糧を隠しておく、これらは未来のためにやっていることではないのだろうか?

多くの学者は本能でしかないという。ならば、人間の行動も本能でしかないのではなかろうか。

昔に手話ができるサルがいた。そのサルは「死ぬことについて」聞かれると「苦痛のない穴にさようなら」と答えたという。そのサルは死の概念も理解していた。自分が死ぬ可能性についても、「年をとって、病気で」と回答している。

これは話せないから人間と比べて思考が劣っているということにはならない証明の一つだと思う。

未来は何もわからない。映画「猿の惑星」みたいに別の種族に支配されるのかもしれないし、火星へ移住しているかもしれない。

まあ、すぐすぐの話じゃないが、。

直近で言うならば、事故で死ぬかもしないし突発性の病気で何かしらの障害を抱えるかもしれない。

私は未来に関して、「シュレディンガーの猫」だと思っている。生きているか死んでいるか、箱を開けてみるまで分からない。それが、未来というものだと思っている。

それ以外の過程なんて些細なものだ。それこそ、選ばれなければ人生が大きく変わるなんてことは無い。地道な努力でせいぜい平凡に生きて死ぬだけだ。それが大多数だ。

未来は生きているか死んでいるかの2択でしかなく、その他の過程に至る選択肢だけが私達に委ねられている。

どう生きようが、最期はみんな同じだ。好きに生きるといいと思う。




6/18/2024, 1:04:12 AM