わたしは、最近思うことがある。
わたしは、自分以外の“他人の心“は、一生かけて向き合ったとしても、全てを知り、理解することはできない。
また、わたしは”自分自身の心“でさえも、全てを知ることはできない。
過去の自分のトラウマが、これまで息を潜めて心のなかに潜伏していたが、ストレスが大きくかかったことをきっかけに、気づいたら顕在化していた。
わたしは、過去のトラウマを解決とまではいかないが、気に留めないようにして、このときまでなんとかトラウマとうまくつきあっていくことができていた。
しかし、わたしにとって大きなストレスがかかったとき、トラウマは光の速さでわたしの元へ戻ってきた。
これからもトラウマとうまくつきあっていけるのではないかと淡い期待をしていたが、いつかこうなるとなんとなくわかっていた気もする。
わたしは、過去は変えられないし、トラウマをなかったことにもできないから、今までよりさらに真正面から向き合う必要があると思った。
わたしが、”自分自身の心“と向き合っていくなかで気づいたことがある。それは、自分の心を全て理解することはできないといことである。
自分がなんでこんな気持ちになるのか、説明できないときがときどきある。
なんでこんなに悲しいんだろう、なんでこんなに安心するんだろう。
このような感情になる理由が、大体この理由かなと思いつきはするが、はっきりとわからないときがある。
こうやって自分が、”自分自身の心“についてはっきりとわからないことがあるとき、漠然と不安になる。
けれど、いくらがんばっても、”自分自身の心“を全て知ることは難しいと思う。
それは、心には顕在化している部分と、潜在化している部分があるからだ。
それなら、割り切ってわかっている部分に集中していこうとすること、また、人に話したり話し合ったりするなかで、自分について気づくことが度々あるため、積極的に話していきたいと思った。
”他人の心“は、全てを知り、理解することはできない。できるわけがない。
そもそも、人は”自分自身の心“を他人にすべて話すことはまずない。ほとんどの場合、話す内容を選び取っている。
先にふれたように、人は”自分自身の心“も理解できていない部分がある。そうすると、”他人の心“の全てを知り、理解することは不可能だ。
他人の話を聞いたときに”他人の心“を全て理解してわかった気にならずに、わかる部分に焦点を当てて、必要な範囲まで拡張していくことが大切だと思う。
相手(目の前にいる他人)に話したり、話し合ったりするなかで、自分の気持ちに気がつけるようにしていくことも大切だと思った。
自分の全てを話して理解してもらうことはできない。そのため、理解してもらいたいという願望は捨てておいて、自分は自分、他人は他人と割り切ることが時には必要かもしれない。
まだ知らない君、
これからも君の全ては知らないまま。
_______まだ知らない君__________________________
1/30/2025, 2:13:02 PM