名無しの夜

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 同期が近隣に転勤になったというので、特に予定はないという連休中に我が家へ来ないかと遊びに誘った。

「結構、坂がキツイのな」

 歩くのは慣れているからと迎えを断ってバス停から30分以上歩いてきた彼は、スーパーの袋を軽く掲げて笑った。

「ビール持ってきたのか? あるのに——重かったろ」
「どってことないよ。土産よ、みやげ」

 彼は縁側がある平屋の我が家をいいねぇと目を細めて眺めた。

「亡くなった祖母の家を引き継いでさ。
 ……お前こういうの憧れあるって、前に言ってたろ?」

 ブリキのバケツを手に、裏手へと促す。

 裏口から、畑——今は家庭菜園程度の事しかできてないが——を抜ければ、小川がある。

 彼が持ってきてくれたビールと、もいでおいたトマトとキュウリをバケツに入れて。

 バケツを、小川に浸す。

 少し下流には、かなり昔に祖父が作った切り株の椅子もどきがあって、二人してそこに座る。

 サンダルを彼に渡し、小川に足を浸して見せると彼も同じことをした。

「おー、ホントにトトロの世界だなー」

 生き返るわーと少々大袈裟に笑う。

「結構、いいだろ」
「あぁいいね!」

 まだ冷えたとはいえないビール缶を1本ずつ開けて飲む。


「婆ちゃんが亡くなって、色々考えちゃってさ」

 快晴の空を渡る風が、周囲の梢や藪を揺らして潮騒めいた音を立てていて、何となく語りだしてしまった。

「ここは夏休みに遊びに来ていたぐらいなんだけど、それなりに思い入れがあったんだよな」
「それで実家出たのか。寝坊魔が、思い切ったな」
「入社した頃の話持ち出すなよー。それに遅刻はしていない、1分前だったから!」
「バカ、課長が多目に見てくれてたんだよ。気付いてなかったのか」
「言われてないから知らん!」

 ひとしきり、笑い合う。

 杭につないで固定していたバケツを近くに持ってきて、2本目のビールと生野菜で両手を埋めた。

「旨いな」
「婆ちゃんの土壌が今年はまだ生きてるからなー」

 来年はわからん、と続けると彼は頑張れーと無責任に伸びをした。

「ここで、ずっと暮らすのか」
「……考え中、てとこだが——まあ」

 そっかあ、と彼は頷いてビールを飲んだ。

「転職決まったら、教えろよ」
「だから、まだ考え中だって」
「そう言って、お前は大体いつも事後報告だろー」

 あの時も、この時も、と一年目の話を引き出され頭を抱える。

「よく覚えてんな、忘れろよ」
「記憶力だけはいいもんで」

 得意そうに歯を見せる。


 転勤が多く、それなりに競争も激しい中で。

 ライバルなはずの彼の存在は——支えだった。


 ここに、住み続けるとしたら。
 彼の言う通り、転職は免れない。

「お前はこういうの、ないの?」
「こういうの?」
「故郷に帰りたい、的な?」

 あぁと空返事して、彼は肩をすくめた。

「俺、故郷ないのよ。親も転勤族だったし」

 その親は駆け落ち婚で、親戚もいねぇしなーと言う。

「そうなのか……。
 でもさ。色んな所に住んでれば、この街好きだとか、こういう所に住みたいとかは、出るだろ?」

 付き合ってた彼女の家とか実家とかさ、と続けると、彼は余計に首をひねった。

「うーん、わからんな……。
 根無し草が、性に合ってるつーか」

 3本目のビールを手にして、彼は目をすがめた。

 風が揺らす藪の合間から、麓の、なんの変哲もない市街地が覗く。


「なんたら橋て歌、あるだろ」
「あー、渡良瀬……」

 あれなぁ、よくわかるんだよ。

 ポツリと彼は声を落とした。


「何だろうな、あれは。
 どこでも暮らせるんだよ、最初は。

 でも二年も過ぎるとさ——歓迎されてないなと感じるんだ。遠巻きに、追い立てられる感じがするんだよ、何かに」

「なにか」

「そ。何か——土地神さまとかかねぇ」

 揶揄するように彼は笑った。

「多分俺、一生根無し草だと思うわ」

「……そんなこと、ねーだろ」


 乾いた笑いに、そう言葉だけ返すのが精一杯だった。


「俺が転職しても、遊びに来てくれよな」
「おー、さんきゅ」

 ビール缶で乾杯する。


 見えるのはただ、平凡で、つまらない街並み。


 でも、確かに。

 彼を心から歓迎していない、何か透明な揺らめきが——

 確かに。

 そこはかとなく息づいていると、感じた。 

6/12/2024, 6:58:31 AM