よしだ

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※グロテスクです。

 ぽたり、と雫が落ちた。それは彼女の心の器が許容量を超え、感情を溢れさせたことの証左だった。彼女がそれに気がついたことを皮切りに、まろい頬を伝う雫が量を増してゆく。ぽたり、ぽたり、ぽたぽた、ぱたたたた。涙をこぼす彼女はしかして、表情をピクリとも変えない。ジッと硬直して動かない。彼女の瞳はピタリと彼に縫い付けられたように向けられたままだ。

「どうして」

 能面のような顔をした彼女が口を開く。それは問いかけだった。何故このようなことをと。如何してこんなに酷いことが出来るのと。

「どうして。どうしてそんな事いうの」

 彼女は責めるふうでもなく、ただ如何して、と彼に問いかけていた。ほんとうに分からなかったから。信頼し、愛し尽くした彼が、凶行に走りその果てに既にずたずただった彼女の心を言葉と云うナイフで滅多刺しにした。けれど彼女はその理由が、原因が、それを行える心が分からなかった。

 彼は、血の海に沈む肉塊を爪先で拗ねたようにつつきながら答えた。

「だって、僕よりこれが大事って君がいうから」

 彼がつついている肉塊は、かつて彼女の可愛い弟だったものだ。頼もしい父だったものだ。優しい母だったものだ。心から愛する家族だったものだ。だから、彼の答えに唇が痙攣して二の句が継げなかった。そんな彼女に目もくれず、彼は続ける。

「僕だって、大事にしたかったんだよ?君の夫になるのだから、おじさんもおばさんも悠くんも僕の家族になるものね?
 ……だけどさぁ、君、僕が、今すぐ会いたいって言ったのに、……言ったのにさぁ!この、この!ただ君の後に生まれただけの餓鬼が?熱出したからって!?ただ君を産んだだけの女の帰りがほんの少しだけ遅いからって!!そんなくッだらない理由でッ!僕に!会わないッて!会えないッて!!言ったじゃない!?
 ……そんな邪魔なモノ、僕らの間には必要ないでしょう?だからこうして処分してあげたんだよって。きっと君も迷惑かけられて心底邪魔だったでしょう?処分したらさ、そしたらさ、君は解放されたんだよって教えてあげないといけないでしょう?ね、そういうことなんだよ。わかった?」

 彼は段々と興奮してゆき、口から濁流の如く言葉を垂れ流して喋り続けた。息が荒くなって、頬がうっすら桃色に染まる。だん!だん!と彼女の家族だったモノを踏みつけながら憤怒の形相でやまぬ怒りを吐き出す。そしていきなり停止して、のろのろと顔を上げた。そこでひとつ息を吸って、彼女を見たその顔は、いつもの優しい彼の顔で。そうして彼は、出来の悪い教え子を諭すように告げた。

 悪魔だ、と思った。これは人の皮を被った悪魔なんだと。とうに限界を迎えていた彼女の精神は、けれど今この時迄は辛うじてその形を保っていた。でももう無理だ。耐えられなかった。歪んでへこんで、金槌で殴った強化ガラスのようにひび割れた彼女の心は、その一撃をもって砕け散った。怖かった。気持ちが悪かった。信じたもの全てが、世界が、ペラペラな紙1枚に描かれた落書きのように思えた。

 そうして彼女は嘔吐して、狂乱して酷い叫び声を上げて、そして彼に飛びかかって押し倒し、馬乗りになった。彼は酷く詰って抵抗して、彼女の美しい顔や体に酷い傷をつけたけれど、もう何も痛くはなかった。

 彼女は手始めに彼の右の目玉を抉り取って、左の目玉を潰した。カエルの尻にストローを突っ込んで、膨らませて破裂させる遊びをした時にカエルがあげたような声が股の下からして、酷く愉快だった。

 次に、彼女は取り上げた右の目玉と家族だった肉塊を彼の口に詰め込んだ。なぜなら、彼女の愛する母は「無用な殺生はいけません!」「私達の糧となった命には、きちんと感謝して頂くのよ」と言っていたから。だから彼女は、家族の死を無意味な死では、無用な殺生ではなかったことにしなくてはならない。彼女は彼が飲み込むまで、鼻と口を押さえつけてジッと見ていた。

───そして、そして、そして、暴虐の限りを尽くしたあと。彼女は全てを、全てを腹におさめて、スックと立ち上がると台所の包丁を取ってきて、それで首を掻き切って死んだ。たった半日あまりの出来事だった。

「雫」

4/21/2024, 6:27:21 PM