久方ぶりに訪れたその街は、絹糸のような静かな雨に閉ざされていた。
以前訪れた時と同じ雨だ。遠い記憶が思い起こされ、懐かしさと物悲しさに目を細める。
あの時も、始終雨が降り続いていた。道行く人は誰もが傘の下で俯き、足早に過ぎていくのは昔も今も変わらない。
傘を差していても吹き込む雨に濡れ、肌に張りつく服や髪の不快感に僅かに眉が寄る。冷たい雨が体温を奪い、堪らず近くにあった小さな定食屋の暖簾をくぐっていた。
「お客さんは運が悪いねぇ。しばらくは雨が続くと思うよ」
遅い昼食を済ませて腹休めをしていた自分の元へお冷をつぎ足しながら、その店の店主は溜息を吐いた。
「分かるものですか?」
不思議に思いそう尋ねれば、客が少なく退屈していたのだろう店主は肩を竦め答える。
「ここらに住む人なら分かるわよ。この先の、端に住んでいた子が亡くなっちゃってね。四十九日が明けるまでは、雨が続くわ」
「人が亡くなると、雨が降るのですか?」
内心で驚きながらも、以前訪れた時のことを思い出す。
確かあの時も、葬式が行われていたはずだ。鯨幕の白と黒。雨の中でも紛れない焼香の厳かな香りに、どこか切ない気持ちになったものだった。
「そんな訳ないじゃない。あの子は特別だからよ……悪い意味でね」
薄く笑いながら、店主は窓の外を見た。
外ではまだ雨が降っている。店主の横顔からは、故人を偲んでいるような様子は見受けられない。
「悪い意味、とは?」
そう問えば、店主の表情が僅かに歪んだ。
「悪い子だったのよ。言い方は悪いけれど、死んで当然だと思うわ」
小さな呟きに、眉を顰めた。
故人への侮蔑の言葉を吐きながらも、店主の表情はすぐれない。そこにあるのは、死に対する喜びでも悲しみでもないように思われた。
例えるのならば、未来に対する不安。道に迷い途方に暮れた子供のような、そんな顔だった。
「本当に悪い子だった。この店が閑散としているのも、きっとあの子のせいに違いないのに……あの子は、死んだわ」
あぁ、と思わず声が漏れる。
「山羊がいなくなってしまったのですね」
「……何か言ったかしら?」
何も言わず首を振る。
言った所で、恐らく店主は理解することができないだろう。
そしてそれはきっと、店主だけでなくこの辺りの住人がそうなのだ。
「会計を」
それだけを言って、伝票を手に立ち上がる。
ドアの隙間から、降り止まない雨に紛れて微かに凛とした香の匂いがしたような気がした。
雨はまだ降り止む気配はない。
傘を手に、無言で歩く。周囲には人の気配はなく、雨が降ってはいるものの辺りはしんと、静まり返っていた。
「――おじさん」
ふと、声がした。
立ち止まり視線を向ける。
「おじさんは、ここが好きなの?」
鮮やかな、赤い傘。
足元を飾る靴は艶やかな黒。その身に纏う服もまた黒い。
「おじさんは、ここに住んでくれるの?」
傘を持ち上げ、こちらを見つめて笑う少女。
蠱惑的な紅色の唇が、にぃと弧を描いた。
「ここに住むことはないよ」
少女の目を見据え、淡々と告げる。
「次の山羊になるつもりもない」
笑みが消える。幼さとは似つかわしくない程、その顔は作り物めいた美しさがあった。
変わらない。以前出会った時と、何もかもが一緒だった。
「今回の子羊は、どうやら君から逃げられたようだね。小さき君ならば、本業ではない私でも大丈夫だろう」
表情の抜け落ちた少女と対照的に、笑みが浮かぶ。
胸元の十字を握り、息を吸った。
「主よ、憐れみたまえ」
言葉を繰り返す。ただ目の前の憐れな魂の救済を願い、旋律を紡ぐ。
少女の表情が歪む。止めようとしたのか、一歩踏み出した足がぱしゃんと水を跳ね、少女の姿を溶かしていく。
まるで水に濡れ滲む絵画のように。美しかった少女の姿はどろどろと形を失い、足元に黒とも赤とも知れぬ水たまりを作り出していく。
「迷える魂を救いたまえ……主よ、憐れみたまえ」
握る十字が、仄かな熱を持つ。手を離し、目の前で十字を切る。
ふっ、と息を吐いた。
目の前にいたはずの少女の姿はない。広がる濁った水たまりも、瞬きの間に地面に染み込み消えてしまった。
「――存外、あっけなかったな」
呟いて、傘越しに空を見上げた。
雨が降り止む気配はない。あの店主が言うように、本当に四十九日が明けるまでは雨は降り続くのかもしれない。
「それにしても、この国は不思議だ」
以前訪れた時も感じたことではあった。
自身の信じる神と、この国の神。相反する存在を、しかし当たり前のように受け入れている。
だからだろうか。この国を気に入り住み着く、人ならざる存在も多い。
「悪魔は去ったが、この街の人々は変わるだろうか」
人々が皆、あの店主のようであるならば難しいのだろう。こればかりは、自分がどうにかできることではない。
嘆息し、歩き出す。足は自然と、亡くなったという子の家の方へと向いていた。
不意に、白い花を抱えた子供たちとすれ違う。ふわりと主張しすぎない柔らかな花の香りが鼻腔を掠め、立ち止まった。
子供たちは会話もなく、しかし俯く様子もなく前を見据えて歩いていく。
「――主よ、憐れみたまえ」
子供たちの背を見送り、胸元で十字を切る。
この雨が上がる時、子供たちに祝福があれと、密かに願った。
20260525 『降り止まない雨』
5/26/2026, 6:11:42 PM