届かぬ想い
その少女、百合は、たった十五年しか生きてないけど、自分ではあまり良い人生と言えるものではなかったと思うなと、ぎこちなく笑いながら言った。
戦争で苦労を強いられた祖父母に、豊かになった時代で大事に大事に甘やかされて育った苦労知らずの両親が出会って結婚して百合を産んだのは、この先も続くと思われた豊かな時代が年号と共に終わりを迎え、先が見えない不況の時代へ突入した年のことだった。
今まで当たり前だった生活が不況と慣れない子育てで送れなくなり、想像していた理想の家庭とは程遠い現実に両親、特に結婚するまで実家で悠々自適なお嬢様生活をしていた母親が疲れ果てて癇癪を起こすようになり、両親の仲は百合の成長と共に険悪になっていった。
百合の小学生最後の夏休みの事だった。古びた団地の狭いリビングでお昼のワイドショーを見ていた母親が、隣で麦茶を飲んでいた百合に言った。
「母さんね、あんたがまだ赤ちゃんで夜泣きがうるさいって理由で父さんに家を追い出されてた時にね、知らない若い女に襲われた時があったの。偶々通りかかった別の若い女に助けられて無事だったけど、あの時もし助けられずに死んでたら、こんな苦労せずに楽になれたのかしらね」
さっきまでうるさく聞こえていたアブラゼミの鳴き声が、窓際に吊るされた風鈴の音が、悲惨な事件を元刑事の解説を交えて放送していたテレビの音がピタリと止まり、母親の小さな声がはっきりと大きく聞こえたのを百合は今でも鮮明に覚えている。
夏休みが終わり、冬休みが終わり、卒業シーズンを迎え放課後の卒業式のリハーサルを終えた百合が家に帰るとリビングに両親が揃っていた。
何年も狭い団地の中で器用に母親を避け続けた父親が母親と向かい合っているのを、百合が珍しい事もあるものだと眺めていると母親が「大切な話があるからこっちへ来なさい」と自分の隣に座るように言った。
「大切な話って何?」
「母さんたちね、離婚するの。百合は中学生から母さんの苗字に分かって、母さんと二人で暮らすのよ」
百合の目の前に記入済みの離婚届が置かれた。
「……そっか」
苗字が変わる以外何も変わらないだろとか、娘の一生に一度のお祝いに親の離婚届はどうかと思うとか、とにかく言いたい事は山ほどあるが、とりあえず何言っても無駄だろうと百合は黙っておく事にした。
その日から卒業式までの記憶を百合は朧げにしか覚えていない。まあ、思い出す事はないので別に困る事はないのだが。
百合が通う中学校の生徒は地元の二つの小学校の卒業生が大半を占めていた。
この中途半端に見知った人がいる環境が良くなかった。
別の小学校から入学した生徒が百合の色素が薄い髪を指摘し、それを聞いた同じ小学校から入学した生徒が百合の髪だけではなく苗字と家庭環境の事までも言いふらし、それを聞いた一部の生徒が揶揄い出し、それを見た生徒が百合を遊びや憂さ晴らしで虐めのターゲットにするという最悪の悪循環が出来上がってしまったのだ。
何処へ逃げても視線と囁き声が追いかけてくる恐怖に、自分の知らない場所で知らない人間に個人情報が根も葉もない噂と共に知られていく恐怖に、とうとう百合が耐えきれなくなったのは中学三年の事だった。
中学生最後の春。桜がちらほらと咲き始めた卒業式の日。
百合が最後に聞いた声は体育館から聞こえる歌声。最後に見た景色は雲一つない青空だった。
何事もなく終わるはずの卒業式は何かが地面に叩きつけられたのような大きな音で中断された。
音の正体を知った生徒が様々な反応をする中、他校の制服を来た一人の少年が校門の向こう側から見つめていた。
「俺言ったじゃん。呼べよって」
少年は小学校の卒業式間近で百合とした会話を思い出す。
「俺は違う中学に行くけどさ、何かあったらすぐ連絡しろよ?必ず駆けつけるから」
「うん。分かったよ」
「絶対だぞ」
「うん」
4/16/2026, 10:00:01 AM