NoName

Open App

冬のはじまり

 此処に春が来る時が、地上では冬のはじまりである。

 かれが再び、主人と我々の元へやって来た。相変わらず春の花のようである。実際に野の花を見たことはないのだが、地上を知る者は皆、そう譬える。
「こんにちは」
「ようこそ」
 我々はうれしい。
 主人もとても喜んでいるが、あまり態度には出さない。二人の間には今でも遠慮がある。
「毎年、君にも母君にも申し訳ないが」
「いいんです」
 我々はかれの側に行儀よく座る。かなり威嚇的な外見をしているので初対面の際は怯えられたが、最近ではすっかり慣れたようだ。念のため、かれの前では「ワフワフ」という腑抜けた音声しか出さないようにしている。
 二人は黙って赤葡萄酒を飲む。しばらくすると、かれは小さな声で「果物が食べたいです」と言った。
 かれは運ばれてきた果物をじっくりと眺め、葡萄を選んだ。我々もお相伴にあずかる。主人はかれの前ではものを食べない。居心地が悪いのか、会えて良かった、と言って仕事に戻ってしまった。
「…やっぱり、柘榴はないんだね」
 かれは帯の間から守り袋を出し、我々に見せてきた。
「あの時の種、ずっと持ってるんだよ」
「ワフ」ほう。

 人間どもの時間では、はるか昔のことである。
 一人の少年が野山を歩いていてどこかから転落し、大きな怪我を負った。珍しく地上にのぼってきた主人がかれを見つけ、ひとまず館へ連れ帰った。生前医師だった老爺が来ていたため、治療を頼んだのである。
 客人が来たためしのない館なので、主人は一つしかなかった寝室を明け渡した。やがて時が経って、かれは回復した。そして喉が渇いていたので、手を伸ばして取れたもの-柘榴を四粒食べた。
 此処には厳格な掟がある。生きた者が此処の食べ物を食べた場合、地上に戻ることはできない。
 かれは毎年、一定の期間を此処で過ごす。その間、かれを愛してやまない母君(作物の実りを司る者)が悲しみのあまり姿を隠してしまうので、地上は冬になる。

 我々が最近知ったところでは、主人がかれを一方的に見初めていきなり誘拐し、さらに(本人には好意を伝えてすらいないのに)かれの父親からだけこっそりと結婚の許可を得て犯罪を正当化し、あまつさえ奸計をもって柘榴を食べさせて自分から逃れられないようにした、という物語が巷間に流布しているらしい。
 主人の勤勉さと職務への責任感を知る我々としては、誠に許しがたい。この物語を書いた者がまだ存命ならば、我々の牙が待っていることを伝えねばならない。

 確かに、柘榴が原因だったのは間違いない。あれ以来、主人はかれに食べ物をすすめることはないし、果物の皿に柘榴はない。
 だがまあ、果物を置きっぱなしにしていたことについては、主人に非があるのも確かである。もし食べてしまったらその時は云々、くらいの下心はあったのではないかと疑われても仕方がなかろう。遺憾ながらこの点においては、先程の恐るべき犯罪物語を否定しきれない。

 別の日。
「おいしいです」
「良かった」
「…柘榴は置かないんですか」
「…貴方は見たくないかと思って」
 かれは俯いてしまった。
「ワフ、ワフワフ」ほら、袋。あの種の。
「ん、桃食べたいの? はい」
「ワフ」違う。だが美味い。

 林檎を食べるのが初めてだとかれが言った時、さすがの主人も少し表情が動いた。あらゆる自然の恵みを享受できる立場だろうに。
「喉に詰まらせたら危ないからって」
 なんでも遥か外つ国に、美しい姫君が林檎を喉に詰まらせて仮死状態になるが、通りすがりの男に口づけされると治り、その男と結婚する、という話があるのだという。母君は誰ぞに連れ去られてはならじ、と林檎を食べさせなかった。
 その物語はもしや、主人を悪し様に言っている例のあれと同じ作者が書いたのではなかろうか。
「柘榴も、詰まらせたら危ないって」
 すると主人は「そうならなくて良かった」と言って引っ込んでしまった。
 かれは守り袋を玩んでいる。
「でもおいしかった、って言いたかったな」
 端的に直接的に、可及的速やかに伝えてほしい。無理ならば我々にも考えがある。

 今日、かれは珍しく一人で出かけている。地底の空(鉱物がきらめく美しい場所。主人のお気に入り)を見に行ったのだ。好機である。
「何をしている」
 主人はかれの部屋に決して入らない。だが目的のものはかれの衣装箪笥にある。我々が何か重要なものを見つけた時に出す唸り声を上げると、主人もやっと動いた。着替えの上に置かれた守り袋を開けるまで唸り続ける。
 主人はしばらく柘榴の種を見つめ、元通りにきちんと包んだ。
「仕事に戻ろうか」
 その日は、大量の新鮮な鹿肉を堪能した。

 かれはうたた寝をしている。ついさっきまで、主人と二人で柘榴を食べていた。もちろん我々もお相伴にあずかった。
 数日前、かれは此処に来るのは実のところ楽しみでもあること、一番好きな果物は柘榴であること、できれば一緒に食べたいと思っていることをつっかえながら話し、主人はこれまたつっかえながら、自分も同じ気持ちであると答えた。
 今かれはすっかり寛いで、主人に凭れて眠っている。主人はこの上なく幸せそうである。
 官吏が恐る恐る呼びに来た。ここ数日仕事が滞っているので、審判を待つ人間どもが溢れそうだと言う。
 主人は小さく溜息をついてかれを抱え上げた。「…お仕事?」「残念ながら」かれが我々に手を振ってくれる。
「ワフワフ」我々は尻尾を振り返す。
 主人がかれの部屋から戻ってきた。我々は恭しく付き従う。今からしばらくは我々のこの三つの首を駆使し、冥府の門番らしく振る舞わねばならない。
「頼んだぞ」
「ワフ」間違えた。「ガルルルル」
「良い子だ」

 地上の冬のはじまりは、此処の春である。主人も我々もうれしいし楽しい。
 春が去ってしまうと長く寂しい冬がくる。だが今年からは、次に会える楽しみを口に出せる。主人も我々も、今までより幸せである。

11/30/2024, 7:55:50 PM