今日のテーマ
《世界の終わりに君と》
「もしも世界が終わる時がきても、おまえとずっと一緒にいたい」
なんてロマンティックな口説き文句だろう。
まるで物語の台詞か何かのよう。
これを聞いたのがもう少し前だったなら、きっとうっとり酔いしれていたかもしれない。
あたしの中に残る乙女心の残骸が、チリチリ胸を痛ませる。
「よくも、ぬけぬけと」
だけどあたしはそんな未練に蓋をして、怒りを込めて彼を睨む。
彼は意外そうに眉を上げ、それから不思議そうに首を傾げた。
「この場面でその反応って何?」
「自分の胸に手を当てて聞いてみたら?」
「……全然心当たりがないんだけど」
しらばっくれるつもりなのだろう。
そして、あたしがそんな嘘にあっさり騙されると思ってるんだろう。
そう思うと余計に腹が立つ。
「思い出せないなら思い出させてあげる。一昨日の晩、駅前で見かけた」
「一昨日?」
「綺麗な女の人とデートしてたでしょ」
降って湧いた残業は、終電間際までかかってしまった。
空腹と眠気でフラフラになりながら改札を出て、家路を急ごうとしていた矢先、その光景が目に飛び込んできたのだ。
頬を上気させた綺麗な女の人と、その肩を抱きながら歩く彼の姿。
遠目にも親密な空気が察せられて、冷水を浴びせられたみたいに血の気が引いた。
浮気していたこともショックだったし、こんな見つかりやすい場所でイチャイチャしてるデリカシーのなさにも腹が立った。
ううん、もしかすると浮気はあたしの方だったのかもしれない。
だって彼女はとてもとっても綺麗な人だった。
あたしより少し年下だろうか。
綺麗でありながら、庇護欲を誘う可愛らしさも持ち合わせた女性。
くすくす笑いながら何か言う彼女に、あなたは幸せそうな笑顔を見せていて。
そんな姿を見せつけられて、あたしは世界が終わったようなどん底気分で家に帰った。
だから、昨日「明日会える?」ってメッセージが来た時、別れ話をされるのだろうと覚悟を決めて今日を迎え。
少しでも別れを惜しませてやれればと、戦いに挑むような心境でメイクも髪も服装も、爪の先に至るまで、気合いを入れてこの場に来たというのに。
肝心の話はいつになっても切り出されることなく、帰り間際に言われたのがさっきの台詞というわけである。
ご丁寧に指輪まで捧げられて。
夢に見たプロポーズが、一瞬にして結婚詐欺に遭ったような最低最悪の気分に陥らせる。
こんなのってない。あんまりだ。
涌き出て止まらない恨み言が胸の中で渦巻くけど、それを口にしたら泣いちゃいそうで、だからあたしは最低限の言葉で返す。
「あたしで予行演習か何かのつもり? それとも彼女とは結婚できない理由でもあるの? 仮面夫婦や契約結婚なら他を当たって。そんな虚しい生活するくらいならずっと独身のままでいい。じゃあね」
ぽかんとマヌケ面を晒す彼に吐き捨てると、私はくるりと踵を返す。
もうこれ以上この場にいたくない。
追い縋られて、誤解だと適当な言い訳を並べ立てられたら、絆されてしまうかもしれない。
自分でもチョロい女だと思う。
だからこそ、彼の言い訳は聞いちゃいけない。
まだ捨てきれない愛情のせいで「騙されててもいい」なんて思っちゃいそうだから。
「待って!」
「待たない」
「頼むから話聞いてくれって」
「聞かない」
予想通り追い縋ってきた彼を、鉄の意志で突っ撥ねる。
思い出せ。
一昨日の晩に味わったあの惨めさを。
世界が終わりを告げたような、絶望的なあの気持ちを。
瞼が腫れるほど泣き濡れて、それでも流しきれなかったあの胸の痛みを。
振り返ることも足を止めることもなく、早足で帰ろうとしたあたしの腕を、彼の大きな手が掴む。
節くれ立った、あたしが大好きだった手が。
この手で彼女に触れたんだろうか。
髪を梳き、頬を包み、背を撫でながら抱き締めたんだろうか。
身を焦がすような悔しさと、どうしようもなく込み上げる切なさに、じわりと涙が滲んでくる。
だけど絶対この場では泣きたくない。
そのくらいの意地はあたしにだってあるんだ。
「違うから。あいつは妹で、今日の相談に乗ってもらっただけで」
「そんなベタな言い訳なんか聞きたくない」
「いや言い訳じゃなくてマジだって」
「だとしてももうあたしには関係ないから」
「関係あるだろ、これから身内になるんだから」
そう言うと、彼は逃げようとするあたしを軽々腕の中に閉じ込める。
嗅ぎ慣れたコロンの香りに条件反射で安心してしまいそうになるのを必死で振り払う。
だけど力の差は歴然で、どんなに藻掻いてもしっかり抱き締められた彼の腕からは抜け出せない。
どうしてこんなことするの。
あたし以外に女がいるのに、どうして繋ぎ止めようとするの。
このまま別れてしまった方が、絶対お互いのためなのに。
彼はあたしを抱き締めたまま、もぞもぞスマホを取り出してどこかへ電話をかけた。
至近距離から聞こえる呼び出し音。
程なく相手の声がする。
電話越しでも可愛い声に、あたしは一層惨めになった。
「今から出てこられる?」
『何? まさか振られたの?』
「その危機を回避するためにおまえも説明してくれ」
『何それ』
「一昨日の晩、一緒にいるとこ見られて誤解されてる。身分証持って、正真正銘おまえが俺の妹だって証明してくれ」
『何やってんの、お兄ちゃん』
苦々しげな彼の言葉に、電話の向こうの彼女は見た目にそぐわぬ馬鹿笑いをする。
ネットスラングで言うなら『草を生え散らかした』ような笑いっぷり。
ここでようやくあたしは藻掻くのをやめた。
「おまえのせいだろうが。奢りだからって調子に乗って足にくるほど飲んだりするから」
『いやー美味しかったわご馳走さま』
「いいから今来い。すぐ来い。じゃなきゃこいつと今からそっちに行く」
『じゃあ来たら? 未来のお義姉さんにちゃんとご挨拶するし、お兄の身の潔白もちゃんと証明してあげる』
ところどころヒーヒー言いながら彼女が言うのに、彼はため息混じりに「分かった」と答える。
そして抱き締めた腕をゆるめ、でも絶対に逃がさないとばかりに指を絡めて手を繋ぎ、こっちの返事も待たずに歩き出す。
もしかして、本当の本当に誤解なんだろうか。
でも『実は血の繋がらない妹で』なんてオチが待ってたりするんじゃない?
信じたい気持ちと疑う気持ちがシーソーのように揺れ動く。
「さっき『もしも世界が終わる時がきても』なんて気障なプロポーズしたけどさ、まずおまえに振られた時点で俺にとっちゃ世界の終わりも同然だから」
「……」
「あいつに会ってもまだ信じられないっていうなら、信じてもらえるまで何でもする。実家からアルバム持ってきて見せるし、戸籍を取り寄せてもいい」
「……」
「どんなにみっともなくても、他人から笑われても構わない。おまえが俺を嫌いになったとかならともかく、こんな下らねえ誤解で終わらせられてたまるか」
握られた手はいつもより力が籠もっていて少し痛いくらい。
いつもは痛くないように加減してくれてるのに、今はそんな余裕もなさそうで。
そんな彼の必死さが伝わってきて、意固地になってた気持ちがじわじわと解けていく。
それから程なく誤解は解けて、あたしは未来の義妹に妙な勘繰りをしたことを心の底から謝罪した。
彼女の旦那さんも参戦して2人が正真正銘血縁関係の兄妹だと証言してくれたし、そのままなし崩しで夕飯までご馳走になってしまった。
穴があったら入りたいけど、朗らかな義妹夫妻は「気にしないで」と笑ってくれた。
そうして改めて2人きりになった帰り道、彼はもう一度プロポーズしてくれた。
昼間とは少し違う台詞で。
「たとえ世界が終わる時がきても、絶対離さないから。一生おまえだけ愛し抜くから」
力強い眼差しで、宣言するかのように愛を誓ってくれる彼。
もしまた疑うようなことがあったら、今度は1人で泣く前にちゃんと直接聞いてくれ。
そんな言葉と共に抱き締められて、あたしはまた泣きながら頷いた。
もしも世界が終わっても、あたしも絶対に離れない。
死が2人を別つまで、あたし達はこれからずっと一緒に歩んでいく。
6/8/2023, 3:34:35 AM