魂とは、心とは、意識とは、孤独を望むならば存在する必要がなかった。
我々は孤独である時、必ず死を意識する。
痛みや苦しみを感じる心などいらないと考える。
もし我々が孤独を望まなければ、その苦しみは生まれてこなかった。
もし我々が孤独のままなら、その苦しみを知ることはなかった。
けれど我々は、
この世界に生きていたいと望む人を羨む。
この世界はそんなにもいいものかと興味が湧く。
しかし、世界は思ったよりも大したことはない。
愛情、友情、絆。高度な信頼関係を築けなければ、若輩者にとって、この世界はつまらない。
これなら、
生きているだけで可愛がられるペットの方がマシ。
咲いているだけで人の心を動かせる花の方がマシ。
けれど、若輩者はペットを可愛いがれない。花を美しいとも思わない。ただ羨ましくなって、それを手に入れられない自分に憤る。それを慰めるために、その儚い存在を無惨に踏み散らしてしまう。
同じような若輩者が集まれば、少しだけマシな感覚を味わえるけれど、彼等は気づかない振りをする。
本当に欲しいものはそれじゃない。
何かを慈しむ心。
だから、それを持っている物に惹かれ、そして加減の知らない力で奪おうとする。
それらを持っている人達は、奪いとることに意味が無いことを知っている。だから彼等は死ぬ間際でも、意味が無いことが分からないもの達を慈しむ。
命をかけねば、意味が無いということを若輩者に教えることは出来ず、また命をかけねば、慈しむ心は育まれない。
生きている間に知ることができるなら、今までその心が分からないまま、知ろうとして、踏みにじってきた過去はなんだったのか。
罪を認めても、楽にはなれない。
認めないままの自分を、一生許すこともない。
ならば死は、唯一の救い。
けれど、もう少しで手が届きそうな所まで来たのに、その記憶を忘れてしまうことは恐ろしいだろう。
覚えている訳にはいかない。でなければ死ぬ意味が無い。
ただ、同じことを繰り返さない保証はない。
誰かが犯した、取り返しのつかない間違いを正す時、
人は自決する。あるいは殺される。
ただひとつ確かなことは、
正しい人間は、決して他人を害さない。
傷つけない、殺さない。
間違いを犯す者にとってはたまらない。
その存在が許容できない。
死ぬべき存在すらも、彼等は殺さないのだから。
だから、人間の法が作り出した死刑という罰は奇妙なものだ。
また、死刑を望む第三者こそ、間違えている。
死刑を執行するのは誰か。
正しい人間は、人の命を奪わない。正しくあろうとする人間が、別の何かに間違いを犯させようとする。
自分の手は汚さずに、誰かの手を汚させる。
これが愚かでなくて、なにが愚かと言えるでしょう。
間違いを犯した者が、死を選ぶべきだ。
間違いに気づいた者も、また死を選ぶ。
けれど正しさを追求した時、我々は迷う。
正しさに迷って、苦しんで、そうして死を選んだならば、
その死は間違っているだろうか。
否。死を選んだ人は、必ず自分の犯した間違いを見つけ、それを認めた人だ。その行いは、いつだって正しいものだ。
また、間違いを犯してしまうと予感した人も死を選ぶ。
人を殺したいと思った時、
正しい者は死を選び、間違った者は罪を犯す。
よって、人殺しがこの世に生きていることは、間違いでなければならない。
しかし正しい人は彼等を憐れに思いながら、ただ見守るしかできない。彼等が自死を選べないほどに憐れな存在であり、またその命すら奪うことは間違いであるからだ。
我々は魂を、意識を、心を得た。
慈しむ心。
それを持つ我々が、持たない彼等に怒りを覚えることはほとんどない。あるのは悲しみのみ。
万が一怒りを抑えきれない時は、我々は死を選ぶべきだ。
死を選ばずに、正しさを貫くならば、
我々に課された使命は、怒りと悲しみに耐えること。
泥にまみれたような、それが、
たった一つの冴えたやり方になるだろう。
9/3/2024, 11:52:08 AM