フィロ

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「こんな時間にカフェでコーヒーなんていつぐらいぶりかしら…」

時計はようやく10時を回ったところだった
まわりに目をやると、遅めの朝食を摂るすでにリタイアしていると思しき男性がゆったりと新聞を眺めていたり、パソコンに向かい、コーヒーに手をつけることも忘れて忙しなくキーボードを叩くサラリーマン風の男性
紗代子のような主婦らしき人はひとりも居ないことに、すこし後ろめたさを感じた

もちろん紗代子も、普段のこの時間は家事に追われ家中を小鳥の様に飛び回っている
ところが今朝夫との会話のふとした一言が、紗代子の家事モードのスイッチをブチ壊した
何もかもが馬鹿らしくなり、食事の後片付けもろくにせず、残す家事もすべて放り出して家を出て来たのだ


「あなた!また奥のタオルから使っちゃったの?手前から使ってっていつも言ってるじゃないの!」
何度注意しても夫はキレイに畳まれ整然と並べられたタオルの列に無造作に手を突っ込みタオルを掴み取るのだ

「そんなつまらないことにいちいち拘るなよ!タオルなんてどれも同じじゃないか! あれはこうしろ、これはああしろ!ってそんなつまらないことに何の意味があるんだよ!」


紗代子の頭の中の何かの線が、ブチッ!と音を立てた
(つまらないことですって?!  何の意味があるかですって?!  そりゃ、お給料もらう貴方の仕事はさぞ意味があるでしょうよ
それに比べたら、私の毎日の家事なんて意味の無いことでしょうよ
やったって、やったって、目に見えた成果があるわけじゃなし、掃除したってすぐに汚れる、食事を作ったってあっという間に食べ終わる、私のやってることなんて、やったことも分からない様な不毛なことだらけよ!
家政婦でも頼めば済むことばかり
私じゃなくたって、お金で解決することばかりよ!
もう!やってられない!!)

そう心の中で湧き上がる思いをぶちまけた
毎日欠かさない夫の見送りにも出なかった


コーヒーのお陰で少し心が落ち着くと、たいして化粧もせず普段着で飛び出して来たことを後悔した
「これじゃ、気晴らしにショッピングなんて気にもならないわ」

紗代子はとりあえず美容院でシャンプーとセットをして貰うことにした
ヘアースタイルが整うと気分も上るし見栄えも格段に良くなる 
簡単なメイクなら頼めば施して貰えるはずだ
「たまには、そんな贅沢したって罰は当たらないわよね」

予定外の美容院はリッチな気分がした
髪は整い薄く化粧で仕上げられた紗代子の顔はいつもよりスッキリとずっと若く見えたが、心は少しもスッキリしなかった


いつもなら次から次に追われる家事を恨めしく思っている時間が、今日はやけにその流れが遅い

せっかくキレイになってショッピングを楽しむはずだったが、何故が心が弾まない
こんな時だから、奮発してランチでもとも思ったが、店の看板のメニューを見てもつい、「こんなの家で作れば簡単に出来るのに、勿体ない!」なんて思ってしまう貧乏性な自分にも呆れてしまう


なんとなく時間を潰しているうちに何だかもう、あれぼどの怒りもどこかへ行ってしまった…

時計をチラチラ見ては、そろそろ洗濯物を入れる時間だわとか、夕飯の仕込みをしておかなくちゃ、なんてことを結局考えているのだ


「そうね、もうこの辺にしておきますか…結局は私は家庭の主婦なのよね
つまらないことでも結構!不毛な仕事で結構! でも、そのお陰で日々の生活が滞りなく回っているのよ、私が細かいことに気を配っているから貴方が気持ちよく生活出来てるのよ、分かってるの?」と心の中の夫に向かって言い聞かせた

「さて、夕飯の買い物でもして行きますか…」
紗代子はいつものスーパーへ向って歩き出した

その足取りは今日一番軽ろやかに感じられた





『つまらないことでも』

8/6/2024, 4:42:40 AM