小さい頃、母さんの歌う童謡が好きだった。
おとぎ話を音節に乗せただけの、簡素なもの。寝る前にいつも思いつきで歌われるそれは、毎日音程も中身も違って、幼い俺の頭に楽しげな刺激を与えてくれた。
母さんの語るおとぎ話は、大抵が勧善懲悪の話で、愛だとか、平和だとか、そういったものの大切さを説いて締めくくられる。
幼い頃は、何も疑わなかった。愛とは素晴らしく美しいものねら平和な生活が何よりの幸せなのだと。
俺が大きくなってからは、もうその童謡を聴くことは無かった。大きくなってひねくれた俺は、滅多に家にも帰らなくなっていた。
喧嘩に明け暮れ、補導回数も片手では足りない。まだ許されているが、そのうち少年院送りになったっておかしくない。
母さんの語るおとぎ話の、罰せられる側になっていた。
愛も平和もどうでもよくて、そこに愉悦と刺激さえあればよかった。
そんな生活の中で、俺を可愛がってくれた先輩がいた。
温かくも退屈だった家から俺を連れ出して、夜の味を教えた男。
無造作に伸ばされた黒髪と、前髪で陰る無気力な瞳。いつもどこかしらを怪我していて、理由を聞いても教えてはくれなかった。
今思えばあの人は、俺の知る愛も平和も、知らずに生きてきたのだろう。
未成年のはずの彼からは、いつも煙草と夜の湿った匂いがした。
そんな彼は、ある日ぱたりと顔を見せなくなった。その頃には俺も少しは落ち着いていて、先輩のことなんか気にせず、母さんとも程々に話すようになっていた。
なんとなく、先輩に会いに行こうと思った。今会いに行かなければ後悔すると、そう感じた。
大学受験が終わった日、俺はそのままの足で先輩の家に向かった。場所だけ教えられて、結局行ったことのなかった場所。
家は随分古くて、あばら家と言うに等しかった。家を囲む塀の内側では、積もったゴミ袋に鴉が頭を突っ込んでいる。
インターホンさえ無くて、ドアをノックした。中から聞き慣れた声がして、久しぶりに見る先輩の顔が覗く。
彼は少しきょとんとして、それから手招きをして、俺を家に引き込んだ。
引き込まれた家の中、俺は暴力と快楽の綯い交ぜになった、知らないものを嫌というほど流し込まれて、かつて愛だと教えられたはずの行為を、愛なのかも分からないうちに上書きされた。
気が付けば、俺は先輩の腕の中にいて、その日、俺は、愛からも平和からも、一番遠いところにいた。
テーマ:愛と平和
3/11/2026, 8:47:09 AM