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 夕暮れ前、5時半。真夏の外はまだ明るい。
 ハルは床に座り込み、小さな身体を前に傾けていた。まだ夕食の時間には早い。けれど、いくら食事嫌いといえど、ハルのお腹は自然と空腹を訴えていた。

「……ん、ん……」

 ちいさく薄い唇がわずかに動く。
 弱い声が喉から漏れ、空気を震わせる。掠れた音は言葉にならず、ただ小さなぐずりとして滲んだ。
 口元は食べ物を探すように、んくんく、と吸う仕草を繰り返す。上下の唇がそっと触れ合い、ミルクを思い出すかのように飲む仕草をしている。
 1歳2ヶ月を過ぎた今も、ハルはミルクをやめられない。感覚が敏感なせいで、1日3回の離乳食を嫌がっている。せんせいは無理やり食べさせるけれど、安心要素としてのミルクの役割はまだ終わりを迎えそうになかった。
 ハルの視線がぼんやりと宙を泳ぎ、目尻にじわりと涙が浮かんだ。ぽろぽろとこぼれるほどではないが、じわりと溜まった雫は、我慢の気配をそのまま映していた。
 それでもハルは声に出して食べ物を求めることも、空腹で声を上げて泣くこともしない。

「ぅ……あ……み、ぅく……」

 ぼんやりした目が、ソファに座るせんせいを見る。音になりきれない漏れたような曖昧な音が聞こえても、資料を確認しているせんせいはハルへ視線を向けることすらしない。

「……みー、く……せ、……せ」

 涙に濡れた声で呼ぶ。小さな両手が、膝の上でかすかに動く。指先は不器用に握っては開き、また握る。その仕草は、欲求を伝えようとする合図のようにも見えた。
 相変わらず静かな音だけが出ているが、耐えきれなくなった涙が、重力に従ってこぼれ落ちていく。

「っ……ふ、ぇ……」

 一度流れてしまえば決壊したように、まるくやわらかい頬にははぼろぼろと涙が流れ出す。
 静かなリビングに、喉を震わせてしゃくりあげる音が木霊した。

「は、ぅ……せー、せ……っ」

 ハルが少しの声を上げる。せんせいはようやく、ハルに視線を投げた。それだけで、声をかけることもミルクを与えることもしない。
 せんせいはひとつ息を吐いて、ソファを立つ。戻ってきたときには、手におしゃぶりを持っていた。

「っう……っ!」

 しゃくりあげながらミルクを飲むように動かしていた口に、おしゃぶりを嵌める。
 びくりと肩を揺らして、流れ落ちる涙の量が増した。ぼろぼろと止まる気配すらない。
 それでも、夕食の時間まではまだ間がある。
 リビングに漂う静けさの中で、ハルは止められない涙のまま、おしゃぶりじゃなくミルクを吸うように、小さな口元だけがゆっくりと、しかしせわしなく、動き続けていた。



『8月31日、午後5時』

9/1/2025, 5:46:22 AM