シシー

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 「ニレ」

 すっかりこの呼び名にも慣れて、跪いて小さく口を開く。決して目を合わせないように固く閉じたまま、甘い香りが近づき唇に触れるまでじっと待つ。

 完熟した桃の一欠片

 それが私の食事で飲み物でおやつ。果汁の一滴すら惜しい、そう思うようになってからは何も感じなくなった。

 基本、相部屋なのだが2週間もしないうちに相手が変わる。最初は怯えていたのに段々と私にだけ笑いかけるようになる。桃ばかりで飽きたと愚痴をこぼし出したと思ったら狂ったように水や食料を要求し暴れる。体力が尽きて眠るを繰り返しているうちに衰弱して起き上がれなくなった次の日にはいなくなっているのだ。

 小舟に乗って睡蓮揺らめく水面を眺める。そっと指先を浸して、花弁の縁をなぞり、葉を撫でて、また水に浸す。ゆっくりとした舟の動きに合わせてその感触を楽しんだ。
 暑いだろうと傾けられた日傘の縁をガラス玉が彩ってそれが光を反射して広げる。重ねた領巾の上を、よく櫛った髪の上を、光が踊って流れていく。手で押さえても逃げられてしまうのを勿体ないと呟けば、フッと空気が抜けるような笑い声が聞こえた。

 この国の偉い人、私の、主人

 桃よりもずっと甘美な世界をみせてくれる人。狭い部屋から連れ出して、綺麗な服と飾りをくれた人。言葉を吐けば返してくれる人、目を合わせてくれる人、頭を撫でてくれる人。
 この人がいなければきっと、いなくなったあの子たちと同じように私もいなくなっていたかもしれない。でももう手遅れかな、それでもいいけどもう少しだけここにいたい。

 桃以外、受け付けなくなったこの身体

 「いつまで、保つのでしょう」

 また来年も咲く、とただそれだけの言葉に私は微笑む。
指先に触れる花に永遠の別れを告げることも、きっと期待していない。それが分かっただけで幸せだと思えた。
 この穏やかな時間がずっと続けばいいのに。

 この喜びを伝えてから、旅立ちたいです



        【題:明日世界が終わるなら………】

5/7/2026, 12:23:55 AM