池上さゆり

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 ぐるぐると渦巻く汚い欲望に男は気が狂いそうになっていた。
 五年前、作家として順調な滑り出しでデビューした彼の元にはたくさんの執筆依頼が来ていた。ほとんどは彼の得意とする、恋愛や人間関係を描いたものが題材となっていた。だが、その中に一つ。どうしても書き進めることができずに悩んでいるものがあった。
 それはミステリー小説だ。人間関係をこんなリアルに書けるのなら、もっとその先にある人を殺したい願望も書けるのではないと期待されていた。
 だが、男は書けなかった。今まで書いてきた物語は自分や知人の人生の一部を借りて、膨らませてきた物語に過ぎない。自分の経験したことを基にした物語しか書けない男にとって、殺人という行為は一番遠くにあるものだった。
 それでも、物語のプロットは書けてしまう。障害を持つ親の元で生まれた子どもが、親の障害を理由に自由に生きられない話だ。最終的には親を手にかけてしまうが、どうしてそのシーンが書けない。どんな思いで、親を殺すのか。手にはどんな感触が伝わるのだろうか。身体はどんな反応をするのだろうか。殺した後はどんな気分になるのだろうか。解放されるのか。罪悪感に呑まれるのか。
 考えれば考えるほど、書けなくなっていく。
 そんな中、両親から久々に家に顔を出してほしいという連絡があった。このタイミングしかない。男はそう確信した。
 翌週、実家に帰り、楽しく過ごしていた。頭の中はプロットの中で練った通りに殺人を犯すことでいっぱいだった。
 ついに訪れたその夜。寝息が聞こえる寝室に忍び込んで、親に跨った。破裂しそうな心臓を抑え込んで、その首に力を入れていく。
 苦しさで目を覚ました親と目が合った瞬間、我にかえってしまい手を離した。自分はなにをしようとしていたのだろう。あの仕事を引き受けて以来、ずっと自分がおかしくなっていることにも気がついていた。もう、やめよう。物語を紡ぐのは趣味でいい。
 男は残っていた執筆依頼だけを終わらせると、そのまま作家を引退した。ミステリー小説が完成することは永遠になかった。

3/2/2024, 10:11:24 AM