どこかの誰かの手記

Open App

上手くいかなくたっていい

父も母も音楽の天才と言われる存在だった。そんな二人から生まれたのに俺には演奏家としての才能がなかった。可もなく不可もなく。いわゆる凡人だ。そして、両親の血を受け継いだ弟はいつも二人に愛されていた。俺に対しては父も母も口では言わないが、態度は歴然だった。

それでも俺は音楽が好きだった。出来ないなりに努力した。勉強もした。うまい人達の演奏会を聞きに行ったり自分の音と比較して参考にしたりしてきた。それでも、天才には勝てなかった。俺が100回目でやっと成功した演奏も、弟は一回聞いただけでひけるようになっていた。俺がやっと名前を覚えてもらった演奏家も弟を絶賛して、みんな弟を見た。

大好きなのに大嫌いだ。全部奪われる。弟のことだって大好きなのに。これ以上嫌いになりたくないのに。ひいてもひいても音色は暗く、海の底に沈んでいくような感じになっていった。

今日も、演奏をする。誰も聞いてくれない俺の演奏。俺だけの音楽会。俺にはもったいないくらいの設備の整った部屋で感情をぶつけてひく。ああ、ここが好きだ。ここは甘く、豊かに。音楽が恋するように。ひいて、ひいて、ひいて。

凡人の演奏。最後の一音が壁に吸い込まれていく。楽しかった。けど、虚しい。ああ、もう終わりにしようか。

部屋の扉を誰かが開ける。

「その曲、僕の大好きな曲だ」

スポットライトが当たったように明るい笑顔を向けてくる弟。違う、お前のためにひいたんじゃない。俺は、

「僕ね、兄さんの演奏が一番好きなんだ。どの演奏家よりも兄さんが好き。」

ふざけんなよ。皮肉か?お前に一生叶わない演奏を好きだなんて。どれだけ努力しても報われない俺の演奏のどこを、好きだっていうんだよ。

「兄さんの演奏はあったかいんだ。基礎がしっかりしてる中に兄さんの心がでてる。あったかくて優しい音。僕、兄さんみたいに演奏できるようになりたいんだ」

俺は気づいたら弟の胸ぐらを掴んでいた。弟の瞳に映る俺はまるで鬼のようだった。

「俺みたいな演奏?凡人の演奏をしたいって言いたいのかよ。なんの面白みもないただの楽譜通りのこの演奏をしたいって言うのかよ」

分かってる。弟は悪くない。なのに、俺は弟になんて酷いことを。どうしたら、俺は俺をとめられる?

「兄さんは凡人じゃない。兄さんは兄さんだよ。音楽が好きな兄さん。ずっと僕に音楽を聞かせてくれた兄さん。努力して、努力して努力して、それでも自分を甘やかさない兄さん。全部僕の大好きな兄さんだよ。そんな兄さんだから僕の憧れなんだ。兄さんをたくさん見てきたから尊敬してるんだよ。プロの演奏がなんだ。父さんと母さんがなんだ。上手くて損はない。でも、上手いだけで中身のない演奏なんて聞きたくもない。」

なんで、そんなに俺を強く見つめられる?俺は今、お前を憎んでいるのに。なんで、そんなことを言える?なんで、俺が欲しかった言葉を全部くれるんだよ。

「兄さんの音楽がもっと聞きたい。うまくひこうなんて思わなくていいんだよ。上手いかなくたっていい。楽しんでひいてる兄さんが僕は大好きだから。」

ああ、そうか。お前は俺と同じか。お前の演奏が好きな俺と俺の演奏が好きなお前。お互いの演奏が好きだなんてなんか、変な感じだ。

少しだけ、心のわだかまりが無くなった気がした。

なぁ、また、一緒に演奏しよう。俺とお前の好きな曲を。

8/9/2023, 2:21:15 PM