本棚の隙間

Open App

【お題:どこにも行かないで】

「……おかあさん」
家のドアが閉まる瞬間、出ていく母の背中に呼びかける。
気づかれることなく、わたしの声は真っ暗な部屋に響いて消えた。
ふらりと視界が揺れて床に倒れる。体が熱いのに寒い。
「……おかあ……さん」
もう一度つぶやくがドアが開かれることはない。
母は家に帰ってこない人だった。いつも違う男の人とどこかへ行ってしまう。
帰ってきても、お酒くかったり、怒っていたり、叩かれることもあった。
『あんた、なんか産まなければよかった』
『子どもなんか欲しくなかった』
『金の無駄。価値もないガキのくせに』
『泣くな、うるさい!』
そう言って割引されたパンを置いて母はまたどこかに行ってしまう。
意識が遠のき、もう目を開く力も残っていなかった。

これはわたしの遠い記憶。

目を開けると温かい籠の中で眠っていた。
誰かがすすり泣く声がする。白い髪を持つ女性が泣いて謝っている。
「竜神様、お納めください。今年の痣持ちでございます」
男の声が森にこだます。そよ風が木々の葉を揺らすだけだった。
「さあ、その籠を置くんだ!」
男が声を荒げ、籠を取り上げようとする。女は首を振り籠を守ろうとした。
しかし、抵抗虚しく、籠は〝竜神〟と呼ばれた祠の前に置かれてしまう。
泣き叫ぶ女を男は担ぎ、その場を離れていった。
わたしはまた捨てられたらしい。あの泣いていた女性は母親なのだろうか。
痣持ちとは何だろうか。眠くなっていき、わたしはもう一度目を閉じた。

「……さん。おか……さん」
行かないで。どこにも行かないで。
わたしを置いて行かないで。そんな願いは届くことはない。
うっすら目を開けると、大きな生物に籠ごと抱かれていた。
竜神様だろうか。大きくて、青い体と瞳。怖くない。温かい。
わたしは安堵し眠りにつく。
しっぽが籠に巻き付き、宝物のように扱う竜。
——泣くな。人の子。私はここにいる。お前を見捨てたりはしないよ
優しい声が聞こえた気がした。

6/23/2025, 9:36:18 AM