結城斗永

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 私はある日、道端で一枚の星図を拾った。青い天球の中に白い点で表された星々が、線で結ばれて星座を描いている。
 作者は不明だが、星図に従って進んでゆけば、『約束の地』と呼ばれる理想郷に辿り着けるらしい。

 夜が来るのを待ち、小さな船で海へと漕ぎ出した。
 不思議なことに星図の絵柄は刻々と変化した。その度に似た星の配置を探し、船首の向きを変えながら大海原を進んでいく。
 
 順調にみえた船旅は、突如訪れた巨大な嵐によって、一転災難となった。
 海を裂くように吹き荒れる嵐は、船を大きく揺らし、波に飲み込まれる度に船の舳先は方角を変えた。
 私は星図を決して手放さぬよう、胸に抱えたまま必死に舵を取る。だが次の瞬間、足元から強烈な衝撃が走り、星図は風にさらわれて、海の底へと沈んでいった。

 それからどれほどの時間が経っただろうか。嵐が過ぎ去った夜更けの海は嘘のようにしんと静まり返っていた。
 夜空を埋め尽くすほどの星が輝き、海はどこまでも大きく広がっている。しかし、星図を失くした私にとってはそのどれもが絶望でしかなかった。
 
「一体これからどうすれば……」
 海に向かって言葉を放り投げる。すると、まるで言葉を拾うように、海の底から光が呼応する。
 青白い輝きが波を透かして、ゆらゆらと揺れる。次第に浮き上がってくる光は徐々に形を成し、少女の姿となって海面に姿を現した。
「お困りのようね?」
 彼女の声は夜の海のように深く穏やかな響きを持っていた。
「星図を落としてしまって、どこへ向かえばいいのか、わからないんだ」
 私が答えると、彼女は少し考えるように目を伏せた後で笑みを見せた。
「それなら、探しに行きましょう。海は広くても探せばきっと見つかるはずよ」
 海面へ向かう私の視線の先には、距離という概念を失ってしまったかのような、ただただ深い闇が続いている。
「大丈夫、私を信じて」
 そう言って少女が差し出した手を自然と握り返す。その瞬間、電流が走ったように心臓がドクンと波打つ。そのまま不思議な説得力に導かれるように、私は海へと飛び込んでいた。

 海の中にはもう一つの夜空が広がっていた。
 魚の群れが煌めき、岩場の珊瑚や磯巾着がぼんやりと青白い光を放つ。そのすべてが悠然と漂い、まるで生まれる前の記憶のように私を包み込む。
 幻想的な懐かしさの中に、ふと既視感を覚える。その正体を探ろうとより深く潜っていくと、魚が通った跡にはこれまでの人生が映し出されていた。

 ――泣いた記憶、笑った記憶
 ――嬉しかった記憶、悲しかった記憶
 ――愛し、愛され、裏切られ、それでもまた愛した記憶
 
 様々な記憶を辿っていく度に、その過程が線となって地図のように繋がっていく。俯瞰的に眺めてみると、それは失くした星図によく似ていた。幾度と変わった星図の中で、一番美しくて納得のいく形。
「もしかして、『約束の地』って……」
 水中に投げかけた言葉は、受け取る者もなく泡となって立ち登っていく。少女の姿はいつからか消えていた。いや、彼女は私の中にいた――。
 
 思えば私は、他人が作った星図を頼りに、外側にある手の届かないところばかりを見上げていた。
 深い海の底には、こんなにも美しくて誇れる地図があったというのに。嵐に見舞われ、進むべき道が分からなくなって初めて、遠い空を離れて深い海の中を覗くことができた。
 徐々に体が浮き上がっていくにつれ、目の前の地図はより大きく確かな輪郭を持っていく。
 水面に顔を出すころには、外はすっかり朝を迎えていた。自分の中に見つけた地図が示す先に、ぼんやりと陸地の影が浮かぶ。まずは自分を信じてあの陸地を目指そう。
 そうして私は再び船に乗り込み進み始めた。

#消えた星図

10/16/2025, 4:10:00 PM