結城斗永

Open App

 ――なんだか、今日はいつもより珈琲が苦く感じる。カップに口をつける頻度が多いからかな。
 彼が淹れてくれた珈琲はまだほんのりと湯気を残し、1DKの部屋をその香りで満たしていた。
 それなのに、どこかで満たされない私の気持ちが、小さなため息として口から漏れる。
 
 ユキトと付き合い始めて、約半年が過ぎた。
 私が勤めるアパレルの店舗のお客さんだった彼とは、次第にプライベートなことも話すようになり、何となく流れで付き合うことになった。休みが合わない中でも、お店に来てくれたり、仕事終わりに時間を合わせて、何とか二人の時間を作ってくれた。私が販売実績で表彰された日には、誰よりも喜んで店先で記念写真を撮ってくれたりもした。
 だけど、互いに仕事が忙しくなるにつれて、今では二人で会う機会も少ない。
 
「ミナミ、どうした?」
 ダイニングテーブルを挟んで向かいに座るユキトの心配そうな顔が目に入る。
「――ううん、ちょっと考え事……」
 私はごまかすようにコーヒーを一口すする。
「お店も忙しそうだね。秋冬の新作、出たばかりでしょ」
 そう言いながら彼の視線がテーブルの下に落ちる。絶対にスマホだ。部屋に来てから五分に一度くらいの頻度で画面を見ては何かを操作してる。たまに小さな笑みを浮かべたりするのも気にかかった。
「売上予算高めだから、来月から休み取りづらくなるかもな……」
 あえて揺さぶりを入れるようにそう呟いてみた。ユキトが顔をあげて心配そうに返す。
「あまり無理はするなよ。ただでさえ仕事量多いんだから、これから根詰めすぎて体壊さないか心配だ……」
 私に返事をする時には、まっすぐ目を見てくれる。そんな当たり前のことで喜んでる私って何なの――。

 カップを覆っていた泡は落ち着き、ぽっかりと開いた液面の暗闇が、私の気持ちを表しているようだった。それでもまだほんのり温かいカップの感触だけが、私の気持ちを繋ぎとめている。
 ――この珈琲が冷めたら、私の気持ちも完全に離れちゃうのかな……。

 ユキトの視線が再び落ちたタイミングで、私は意を決して彼に問いかける。
「ねぇ、さっきから何見てるの?」
「あっ、ゴメン。これは……」
 彼が伏せたスマホを、思わず私の手が引き寄せる。
 短く「あっ」と漏らした彼の視線が泳ぎ、口から大きなため息が漏れる。
 まるでこの世の終わりのように頭を抱えてうつむくユキト。
 珈琲の液面より真っ暗な画面を前に、不安は最高潮に達する。指先が画面に触れた瞬間、私の口から思わず声が漏れる。

『配達員が間もなく到着します』
 画面には出前アプリの配達予定が映し出されていた。注文先は近所の洋菓子店。
「……これって」
「サプライズ……の予定だったんだけど」
 ユキトが肩をすくめて照れ臭そうに笑う。
 ほぼ同時にインターホンが鳴り、ユキトはバツが悪そうに頭を掻きながら玄関に向かう。
 私は状況がまだ完全に飲み込めず、しばらく呆然としていた。

 両手に収まるほどの小さな箱を手に戻ってきた彼が、私の目前にそれを差し出しながら言う。
「ミナミ、おめでとう」
 箱から出てきたケーキを見た途端、全身の毛が逆立つように体が震え、涙となって溢れ出る。
『店長就任おめでとう そしていつもありがとう』
 チョコペンで書かれたメッセージとともに、ケーキの上面にプリントされた、あの日店先で撮った写真。
「さっきはゴメン。ケーキ屋から仕上がり画像が送られてきてから、早く見せたくて仕方がなくて、つい――」
 
 ――珈琲が冷めないうちに、この温かさに気が付けてよかった。

 返事をしたいのに、涙が喉の奥に溜まって声が上手く出せなかった。
 泣きながらただ頷く私を抱き寄せてくれた彼の胸はとても温かった。

#コーヒーが冷めないうちに

9/26/2025, 4:50:52 PM