紙ふうせん

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『あいまいな空』

私、陽子は入社して二年、だいぶ慣れて仕事にも少しずつやりがいを覚えてきた頃だ。

最初は、就活中は他の仕事を考えていたので、正直ここは候補に入っていなかった。
とにかくいろいろな会社を受けてとうとう三十社を越えて落ち続けて、心が本当にボキッと折れる音が聞こえたと思った頃、偶然この会社を知り、ダメ元で受けたら、なんと受かったのだ!

嬉しかった!私を必要としてくれる所があったという事に感謝し、私を拾ってくれたこの会社の為に一生懸命働こう、と思った。

入社して最初は無我夢中だったので、気づかぬうちに季節は変わり、いつの間にか二年目になっていた。

先輩は厳しいけれど、それは私達、入社したての者が、早く仕事を覚えるためそうしてくれているのだから感謝している。

同期は女子は四人、男子は五人入社した。

それぞれ配置された課は違えど、時々集まって飲み会を定期的に開いている。

私はなんとなく、いつからか同期の村上君とつきあっている。
もちろんみんなには内緒だ。

村上君は私と同じ、地方出身で、都会に驚くことがとても似ていて、なんか話していて気が楽だな、と思ったのがきっかけだったのかもしれない。
課は違うけれど、月に休みの日は二度くらい、平日は週一くらいでデートしている。

お互い、まだまだ新人だから仕事が多くて帰りが遅い事が多いから。

みんな、二年目ともなるとだいぶ都会に慣れて垢抜けた感じだ。

でも、私と村上君は相変わらずどこか地方出身者感があって、そういう所も素朴で好きだった。

帰りにデートの約束をしていた日、スマホに通知が来て、さり気なくトイレに立った。

個室に入って読んでみると、村上君からで『仕事が終わりそうもないし、待たせるのも焦るから、今日は行かれそうになくてごめん』という内容だった。

仕事なら、当たり前だ。
だから私は『それは仕事優先だよ。私は気にしないからがんばってね』と送った。

実は、この間とても気に入った服に出会い、一目惚れで買ってしまったのだ。そして今日はそれを着て来たのだった。ちょっと残念だけど村上君は仕事で忙しいんだからしかたない。

今度のデートに来てこよう、と思った。

悪いことはとかく重なるもので、村上君から誘われた日は、今度は私が残業で今日中に報告書を作らなくてはいけなくなり、デートは流れた。

その頃、会社自体が忙しい時期で、同期のみんなも飲み会どころではなかった。

一人の夜、一人の休日。なんだか何もする気になれない。
気晴らしに出かけたくてもお給料日前なのでガマンガマン。

そうだ、と思い立ち、久しぶりにお菓子を作った。
学生時代は、趣味がお菓子作りでいろいろ作ってはみんなに配っていた。幸い材料は少しだけ買い足せば良かったので、スティックケーキを作った。ビターチョコを使っているので、男の人でも食べられるはず。

たくさん出来たので、後で紅茶と食べたらとても美味しく出来ていた。

百円ショップで袋もたくさん買ったので、そこに入れて留めて、明日みんなに配ろう、と思った。

翌日、手提げの紙袋に入れて持っていき、課の人だけでなく、近くの人みんなに配った。みんなとても喜んでくれた。もちろん同期のみんなにも配った。みんなびっくりして「え〜!凄〜い、これ陽子が作ったの?お店のみたい!」と言われて嬉しかった。村上君には特別多めに入れてこそっと渡した。「ああ、サンキュ」と言っただけなので少し拍子抜けしたが。

なんだか気分が良くて、午前中の仕事も張り切ってこなした。
お昼休みにトイレにいると、先輩や他の課の人達の話が耳に入った。

「ねえ、今朝の見た?」「見た見た!なあにあのお菓子、今時作る?」「中学生でもあるまいし、あんなの得意気に配られてもね」「おまけにカロリー高そうだし」「食べたくないよ」アハハと笑って戻って行った。

私は、トイレの中で、涙が出て止まらなかった。そんなつもりじゃなかった。ただ、喜んでもらいたくて作っただけなのに。あんなの、配らなきゃ良かった。

もう、戻らなきゃ、と涙をこらえ、ハンカチを濡らして目を冷やした。
お化粧直しで、うん、ごまかせる。

気を取り直して歩き出し、廊下の突き当りの自販機が並んでいる所を通り過ぎようとしたら、今朝配った私のお菓子を、とても美味しそうに食べてる人がいた。同じ課の男性の先輩の安藤さんだった。

あまりにも美味しそうに食べているので、つい、足を止め見入ってしまった。すると視線に気づいたのか安藤さんが私を見てゴホゴホとむせた。慌てて私は自販機でアイスコーヒーを買い、渡した。

「これ、良かったら飲んでください」というと「あ、ありがとね」というと受け取ってごくごく飲んでから、今更気づいたように「川野さん」と私の名字を呼び、「このチョコケーキ、すごく美味しいねぇ」と言ったので、思わず「へ?」と気の拔けた声を出してしまった。「俺さ、じつはチョコケーキとか大好きでさ。これ、ビターチョコなのがまたいいね!」と人懐っこい顔で本当に美味しそうに言ったので、抑えてた涙が溢れてしまった。

安藤さんがびっくりして、「俺、なんか悪いこと言った?」というので「違うんです」と言って、心がとても苦しかったので、トイレの件を、つい話してしまった。そして
「私が悪かったんです。こんな可愛くもない、流行りでもないあんなお菓子をみんなに配ったりするから」
「まぁ、女性は何かというと映え〜!だからね」と言いながら
「でも、手間かけて手作りしたのって本当に美味しいよね。俺は本当はもっと食べたいくらい、美味しかったけれどね」
と、一つで残念そうに言うので、思い切って「あの、家にまだまだあるんです。良かったら明日安藤さんに持ってきます」と言うと、安藤さんの顔がぱっと輝いて嬉しそうに
「本当に?嬉しいなあ、じゃあ、待ってるね、コーヒーもありがとうね、川野さん」と笑顔で言ってくれた。

頭を下げて仕事場に戻りながら、なんだか気持ちが晴れているのに気がついた。男の人で、あんなに美味しそうに食べる人、見たことないよ、と思ったら、なんだかくすぐったいような気持ちになった。

夜に村上君に電話した。なんだか声を聞くのもすごく久しぶり。
随分呼び出し音がなってから「もしもし」とやっと出た。
「もしもし?今日のケーキ、食べた?どうだった?」と言うと何も言わない。あれ?どうしたのかな?と思ったら「ごめん、俺さ、甘いもの苦手で、女の人にあげちゃった」
「あ、そ、そうだったんだ、ごめんね、苦手なのにたくさんあげて」「いいよ、俺こそ、せっかくもらったのにごめんね」と言う。私は何気なく、いつものように
「ねえ、今度いつデートしようか」と言うと、「分からない」「え?」
「今は仕事で疲れていて分からないんだよ!」と強く言われ、思わずびっくりする。前なら「疲れたよ〜」とか言ったのに。

いきなり怒鳴らなくても、と少しムッとしながら「疲れてたところ、ごめんね、よく休んでね、おやすみ」と言うと
「陽子」と言われ「なに?」と言うと「いや、なんか、ごめん」と言って電話が切れた。

なんとなく、歯切れが悪く、今までの彼らしくなかった。最後の、ごめん、が喉に刺さったままの魚の小骨の様に妙に気になった。

しばらくすると、会社にある噂が飛び交うようになった。
「知ってる?去年入った村上君、同じ課の山口さんとつきあってるって」
「何でも残業して残って仕事してたのを見かねて手伝ったのが始まりだって」
「山口さんって、二歳上じゃなかったっけ?」
「村上君って素朴そうで好青年じゃない!山口さん、いいところに目をつけたよね」
「村上君って、まだ彼女いないんでしょ?」

私は、なんだか他人事のように聞いていた。
山口さんは、とても優しそうで細かい気配りのできる人だった。

残業、あの、新しく買った服を見せたかった日だ、と思った。
一度だけ、誘ってくれたけれど、今度は私が仕事だったんだ。

考えたらそれからは一度も村上君から連絡がなかった。

この間、夜電話したとき、なんかごめん、と言ってたっけ。
いろんな意味のごめんだったんだ。

安藤さんには翌日、本当にいいのだろうか、と思いながら、まだうちにあったチョコケーキを三つ袋に入れて渡した。こういうのを破顔、って言うんだろうな、という顔ですごく嬉しそうに受け取ってくれた。

あの後うちで、夜にまたものすごく美味しそうに食べたのかな、と思うと、少しだけ気が紛れた。

私は、なんだか体の中の『元気のもと』がなくなってしまったような気がした。会社にいる時は、よけいなことを考えず、ひたすら仕事に没頭した。そんな私の内心を知る由もない課長は「川野さんも最近はがんばっているな」と声をかけてくれた。
「ありがとうございます」
そう言ったけれど、その声は自分の声ではないみたいだった。

そんなある日、安藤さんが「川野さん」と廊下を歩いていたら声をかけてきた。
「はい、なんでしょうか?」
なんの仕事だろう、と思っていると
「今度の日曜日、空いてるかな」というので、何も予定のない私は
「はい、空いています」と言いながら、質問の意図が分からずにいた。

「じゃあさ、」と笑いかけながら
「動物園に行かない?」は?
「ど、動物園って、あの動物がたくさんいる」と当たり前の事を言うと
「そうそう、その動物園、行かれる?」と、子供のように、にこにこ返事を待っている安藤さんを見てると断れなくて「行きます」と言った。

「じゃあ、日曜日、〇〇駅を降りたところで」と言うとタッタッタッと走って行った。

日曜日、指定された駅前で待ちながら、ひたすら考えていた。
動物園、動物園って子供を連れて家族で行ったりするところではないのか。なんで、動物園?
「やあ、おはよう、川野さん」と声がして見ると、ベージュのカッターシャツを着て帽子をかぶり探検隊の様なズボンを履いていた。

あまりにも会社でのイメージと違うのでびっくりして、そうしたら笑いがこみ上げてきて、我慢できずに「安藤さん、なんか、探検隊の人みたい」というと、「良かった!そういうイメージで着てきたんだ」と言った。

「川野さんもそんなおしゃれな服じゃなく、探検隊風に行こうよ」と言うと、私の手を取りどんどん歩き出す。手近な洋服屋に入ると、私のきれいなワンピースから、なんと私もベージュの綿混のブラウスにキュロットパンツを気がついたら着せられていた。足元もパンプスからスニーカーに。
悪夢だ。私がこんなカジュアルな服装をするなんて。

そして、帽子屋さんに入ると服装に相応しい帽子を選んで被せられてた。

でも、にこにこして「うん、いいね!似合うよ!」と安藤さんに言われると、まあいっか、と思えるから不思議だ。

バスに乗って、動物園前で降りると、ものすごく大きな動物園だった。

ぼうっとしているといつの間にか安藤さんが入場料を払ってくれた後だった。慌てて「すみません、自分の分は払います」と言うと「何言うのさ、ものすごく美味しかったチョコケーキのお礼だよ」と言って、手を取り歩き出した。

考えたら、動物園なんて子供の時来て以来だ。それにもっと小さな動物園だった。

「わあ!すごい、すごいすごい!いろんな動物がいる〜」私は入ったらすっかりテンションが上がってしまった。

大きいけれど優しい目の象や本当に背の高いキリンなど見る度に歓声を上げていた。
安藤さんも「うわ〜、すごいなあ!」とずっと笑顔のまま。

気がつくと手を繋いであちこちとマップを見ながら次々と見ていた。

足を進めようとすると「はい、休憩の時間だよ」と言ってフードショップに入った。
冷たい飲み物を頼み、飲み始めると、すごく喉が乾いていたのに初めて気がついた。
あんまりのどが渇いていて一気に飲んでしまった。
「安藤さん、ソフトクリーム食べますか?私、食べたいです。」と言うと笑顔で「うん、お願い」と言った。

落とさない様に気をつけて持ってくると一つをまず安藤さんに渡す。
「私はこのてっぺんが好きなんです」と言うと「あ〜、わかる!俺も」と言って二人で笑った。

下は私の好きなコーンだった。こぼれないよう、上を食べたり下を吸ったりしながら食べた。窓からキリンが見える。

「私、動物園ってこんなに楽しいと思わなかったです。誘ってくれてありがとうございます」と安藤さんに言うと、「ね?お洒落な所に行くのもいいけれど、こういう所って心が開放されるでしょ?」と言う。

安藤さんは、私が元気がないのを知っていて、連れてきてくれたのかもしれないな、と思った。

優しくて、いい人だなあ、と思った。
まるで今日の、この青空のような人だ、と。

でも、村上君の事を思うと心が軋む様になる。
もう、私の事は好きじゃないんだね。それは目をそらしているけれど見たくないけれど、会社に行けば、嫌でも村上君と山口さんと仕事で顔を合わせる。
それはとても気が重い。

やめやめ!せっかく安藤さんが誘ってくれて開放感に浸っていたんだから!

最初はえぇ〜っと思ったけれどこの支度、帽子は陽射しから頭を守ってくれるし、服装も汗をかいても綿混なので気持ちいい。
スニーカーは、いくら歩いても走っても、全然足が痛くならない。

なんだか、今まで私は無理なことをしてたのかな、と思った。

みんなに喜ばれようと、ケーキを配ったり、オフィスにふさわしい服装しか持たないようにしてたし。

部屋も都会っぽく、とか全然自分らしくない部屋だったし。

今度、お給料日の後、私らしい服とか部屋の模様替えを少しずつしていこう。

なんだか、天気が変わってきた。

陽射しがまるで眠りに入るようにその明るいまぶたを閉じる。

だんだん雲が増えてきたけれど、一部の空は青空が見える。

黒っぽい雲と少しの青空。

まるで今の私の心のような、はっきりしない、あいまいな空だ。

でも、黒っぽい雲は、もう嫌だ。

天気だって、時間が経てば変わるだろう。
出来れば青空がもっともっと増えて欲しい。

私の心もできたらいい方に変わりたいな。

安藤さんと同じ様な探検隊の様な服装で帽子を二人とも被って手を繋いで、空を見上げていた。

6/14/2023, 2:05:33 PM