フィロ

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これは僕が小学生の頃の話だ

僕の母は僕が生まれた頃から病気がちで入退院を繰り返していた
僕が3年生になった年の夏休みにもひと月近く入院した

母が入院している病院は家からそれほど遠くなかったので、僕は毎日自転車で母の顔を見に行った
特に用事があるわけではなかったけれど、母の顔を見ると安心した

「公ちゃん、もう帰るの? 今来たばかりじゃないの」
と、着いて5分と経たずに帰ると言い出す僕に母はクスクス笑いながら呆れていた

そんな母の顔が見られれば十分だった


母の病室から西側の突き当りに、特別室と札の掛かった部屋があった
名前の札は入っていなかった
母の病室から帰る方向とは逆なので部屋の前を通ることはそれまで無かったが、その日は何故かその部屋が気になり部屋の前まで行ってみた
ドアが10cmほど開いていたので、そっとその隙間から中を覗いた

すると、白い髪をきれいに束ねた品の良さそうなお婆さんがベッドにちょこんと腰掛けて僕に向かって手招きした
まさか人が居るとは思わずビックリしたが、とても優しそうなお婆さんの柔かい声が僕を安心させた

「坊や、こっちへいらっしゃらいな
美味しいキャンディーがあるのよ」

もちろん、キャンディーが欲しかった訳では無かったが、何故が逆らえない気がして静々と部屋の中へ導かれるように入って行った

「坊や、どなたかのお見舞い?  偉いわねぇ じゃあ、こちらの素敵な包み紙の方のキャンディーをあげましょうね」
と、お婆さんの柔かそうな白い手がキャンディーを差し出してくれたけれど、僕は受け取らなかった

「知らない人から物を貰っちゃいけないんだ」
と答えると、お婆さんはとても哀しそうな顔で
「坊やは偉いのねぇ…」
と残念そうに呟いた
僕はとても悪いことをした気持ちになり
「え〜と、え〜と、本当はダメなんだけど、ひとつだけなら…」
とそのキャンディーを受け取った

「坊やは優しいのねぇ…  また遊びにいらっしゃいね」
ととても嬉しそうにお婆さんは微笑んだ


そのキャンディーはそれまで見たことのない美しい包装紙で包まれていた
きっと外国製のものだったのだろう
帰り道中身のキャンディーは口に放り込み、その包装紙はきれいに折り畳んでポケットに大事にしまった
家に着くとすぐに、大切な物をしまってある宝箱の中にその包装紙をそっと入れた


それから毎日母の顔を見た後はそのお婆さんの部屋にも寄るようになった
特に話をするわけでもなかったが、毎回違った模様のキャンディーやチョコレートをくれた
そして
「坊や、また明日もいらっしゃいね」
と優しく微笑んでくれた


宝箱にしまった包装紙がかなりの数になった頃、母が退院した
最後の日は父や姉が一緒だったので、そのお婆さんさんにお別れの挨拶が出来なかったことが心残りだった

帰りの車の中で、初めてそのお婆さんの話をした
すると母が不思議そうな顔で言った

「えっ?あの特別室は誰も入院していないわよ  もう長いこと用具室としてしか使われていないもの 
いやぁね、公ちゃんたら、お母さんを怖がらせようとしてるの?」
と母は僕を冷やかした

そんな筈はなかった
だって、毎日お婆さんにあっていたし、証拠の包装紙だって大事に取ってあるのに!

家に着くと一目散で部屋に駆け上がり、宝箱を取り出して中を確認した
ためた包装紙は確かにそこにあった
「やっぱり!」
急いで母に見せようと思ったが、ふと思い留まった

もしかしたら、お婆さんの姿は僕にしか見えなかったように、この包装紙も母には見えないのかも知れない…

あのお婆さんは、何故だかは分からないけれど、僕にだけ気付いて欲しかったんだ…
この出来事は僕だけの心の中にしまっておいた方がいいんだ…


リビングからは家族の久しぶりの賑やかな声が聞こえてくる

「公一、早く降りて来なさい せっかくお母さんが帰って来たんだから
皆でケーキを頂こう」
と父の嬉しそうな声がした



これが、僕が小学生の時に体験した不思議な病室の思い出だ




『病室』


8/3/2024, 4:31:03 AM