よあけ。

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靴紐

ある男が煙草を吸いながら語っている。

「お金のことを心配したのでしょう。祖父は大きな家を売り、土地を売り。どうせ先の短い命だからと。あんなにあのアトリエとそこから見える景色を気に入っていたのに。その後、祖父はそのまま…………。

あの家で生きることが彼女の幸せなのかもしれません。あたたかな家庭で、きっと彼女もここにいるよりは笑って過ごせるだろう。何も間違っていない。…………それでも、目の前の幸福がこぼれ落ちていくのをただ見ていることしかできなかった、この寂しさはどうにも消えないものです」

道すがら、男はふと立ち止まる。靴紐がパラリと解けた瞬間、どうしようもなく、堪らなくなった。

「じゃあ死んだあいつはどうなる。本当の弟みたいに思ってた。彼女を守り、それで幸せだったと? なんのために。生まれてきた意味なんて……」

それを聞いていた若者がけろりと答えた。

「僕、弟さんが生まれてきた意味、あったんじゃないかなって思います。だって、奇跡的に隕石が落ちてくることなんて誰も分からなかったわけじゃないですか。でも、弟さんはたまたまその日帰ってきていて、たまたまベランダにいて、たまたま彼女さんと一緒にいた。だから彼女さんは今生きてる。奇跡的に弟さんが守ってくれたから。その為に生まれてきたんじゃないですか?」

男は思った。

緑の尾を引く隕石が、彼女と、その弟が談笑している方へ、一直線に向かっていく。それを想像して、やめた。『その為に生まれてきたんじゃないか』。生まれてきた意味があるんなら、それでよかったのだろうか。それで。

視線を落とした先、指に挟んでいた煙草が目についた。紫煙が星々煌めく夜空へ立ち昇ってゆく。

「…………そうか」

男はそう呟いて、滲む涙を拭いもせず、携帯灰皿に煙草を押しつぶしていた。

9/17/2025, 11:50:09 PM