遠い日の自分は言葉というか理論とか哲学とか思想また思考そういった事柄に所謂ある種の力みたいなものがあるような気が本当にしていた。
でもそんなのは大間違いだと真言密教と不動明王の事を学び触れたりしたらすぐ気が付いた。
何かを取り繕うとする時に人は口を開き言葉を発するものであるし充実を感触している時の人はその極みの一瞬は皆誰もが目を閉じ鼻から息を大きく吸い込みそして静かに口から吐き出して所謂深呼吸している気がする。
不動明王は ...
氷の上に座し乍らにして、
火炎の中に住し祈り続けるのである。
愛する他人たる自ら以外の〝 本真 〟を救うなら救いたいなら倣って火炎に潜り氷床に座せばよいのである .......
........ そんなことは神様でも仏様でもない人間凡夫である故出来ないのだがメンツは立てたい ...
......... で人は口を開く ...
広く世の中ではそうしたことを能書や弁解とは呼ばず 〝 やさしさ 〟と呼ぶ。
極端な事まで言及すれば、
貧富の差すらその延長線上に在るようにも思える。
炎で身を焼き乍ら尻を凍らせ乍ら祈り続けられぬ凡たる己れを如何に飾るか ... ... ..... ....
瞼を閉じれば、
広がる砂丘に無数の揺れ続ける天秤が映える。
様々を加味して念う時、
私は熟ツイてない人生で佳かったと安堵する。
ニセモノにだけはなりたくなかったからね。
7/19/2024, 4:32:14 PM