匿名様

Open App

ひとつ、壁にかかったあの巨大な布を捲らないこと。
ふたつ、色の違う、取手の生えた四角い壁に触れないこと。
みっつ、部屋の外側から聞こえる音に耳を貸さないこと。

たったみっつの約束ごと。
ルールとは、私を守るためにあるものだと。
それさえ守れば、私が望んだ、何者にも脅かされない暮らしは手に入るのだと、その人は言いました。
ですから目の前に立てられた三本の指を見て、私はわかったと頷いたのです。

本とCD、眠る場所と座る場所。私を守るように周りを囲む白い壁。頭上でぴかぴかと光る白い球。
私にとって必要な世界は四角く区切られたふたつの部屋だけで、片方は身体を清潔に保つためだけの部屋でしたから、私はほとんどの時間を広く、物が多い方の部屋で過ごしました。

お腹のあたりがへこんで、背中とくっつきそうだと思ったら、棚にある缶詰を開けて食べる。
瞼が重くなって、開いたページに並ぶ文字列を認識することが難しくなってきたのなら、柔らかな寝床へと横になって眠る。
壁の向こう側の音を気にしないために、部屋の中をずっと音楽で満たす。
本の内容はよく分からないものばかりだったけれど、読める文字を繋ぎ合わせて考えることは好きでした。

眠って、起きて、食べて、読んで、捲って、考えて、洗って、眠って、起きて、待って、食べて、眺めて、
そうやって過ごすのです。
波風ひとつ立たない。まるで他人の人生を眺めているかのような、遠い感覚がずっと続いている。この場所にあるのは、確かに私が望んだ平穏でした。

私にこの約束ごとを取り付けたその人はといえば、いつだか私が目を閉じている間にいなくなってしまいました。
それから今まで、顔も声も思い出せなくなるほどに見かけていません。ただ、私の心にいつも温かな感情を与えてくれる人だった、という印象だけがふんわりと残っています。きっと大好きな人でした。
今も、これからも、その気持ちだけは大事に抱えていこうと思います。


けれど不思議なもので、はじめの頃は減らなかった缶詰も、近頃は減っていく一方なのです。床に散らかった物たちは、寝て起きても元の場所に戻らなくなりました。
天井の光は次第に弱くなり、蛇口を捻っても水は出てこなくなる。CDプレイヤーから流れる音は、ぷつぷつとノイズが混じるようになりました。
私は頭もよくなくて、何かを覚えているのも得意じゃない。そんなまどろみの中で生きているような私でも、こればっかりは気が付いてしまいました。

終わりが近いのだと。

変わらないものはありません。
何度も読み込んだ本はページの端が折れ曲がって、紙は黄ばんで文字は掠れていく。ふかふかだった布団は、潰れて、薄くなっていく。よく現れてくれたあの人は、何も言わずぱたりと消えてしまう。
人は次第に弱って、死んでいく。
恐ろしいものです。それは、はたらかせようとした頭が真っ白になるくらいに恐ろしいものなのです。

だから。だから、脆くなった壁をすり抜けて迫り来る恐怖と不安から逃げるためには、たったみっつの決まりごとのどれかを破る他に、もう道はありませんでした。
埃と髪の毛が覆う床を踏んで、薄暗い部屋の中をぺたりと歩く。爪の伸びた指先でスイッチを押し、もう途切れかけの音楽を止める。壁にかかった布の端をつまむ。
心臓が早鐘を打っていました。口から零れる息と、手と、足が震えていました。けれどももうここにだって平穏はないのです。
鮮明に聞こえるようになった外の呻き声たち。
私がゆっくりと捲った布の向こう側、透明な板を通して見えた本当の世界の天井は、空は、目を焼くほどの赤色でした。


【ルール】

4/24/2026, 12:21:15 PM