「あたしたちきっと、忘れてるの」
深夜3時、ベランダで煙草を吸いながら、彼女は囁くような声でそう言った。
「何を?」
僕はそう問いかける。
「浮遊すること」
彼女は時々、不思議なことを言う。それも唐突に。僕は彼女の言葉の意味をはかりかねて、首をかしげる。そんな僕を見て、彼女は柔らかく笑った。
「…眩しいの。色々なものが。きらきらして、魅力的だから目を離せなくなるけど、ずっと見つめていたら疲れてしまう。」
「浮遊したら、そうじゃなくなるの?」
「地に足をついていたら、帰るべき場所がわからなくなるから、あたしたちは一生眠れなくなる。だから浮遊するの。帰るべき場所を思い出すために。」
「…僕にはわからない」
そっか、と彼女は頷いた。いいの、と呟く。いいの、それでいいの。
「ねえ、もう眠ろうか」
煙草の火を消して、彼女は僕に言った。月明かりに照らされて、長い黒髪がきらきらと光っている。
「浮遊しようか、」
僕は、今そう言わなければならない気がした。彼女が驚いたように少し目を開いて、そして微笑んだ。
「…うん。」
僕らは浮遊する。これは束の間の休息である。
10/8/2023, 5:48:58 PM