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助手も帰った夜の研究室。

検査結果の入力をしていると、一通のメールが届いた。
送り主は、本社の総務部からだ。
件名には「研究所の今後について」と書いてある。

その端的な件名を見た瞬間、僕の左胸は一瞬停止し、次いでバクバクと嫌な音を立て始めた。
体の芯は熱いのに、指先は凍えるように冷たくなっていく。

心臓の音がうるさい。
その一方で頭は、淡々と状況判断していく。
この研究所は、古い施設だ。
耐震性やら免震に不安がないと言ったら嘘になるくらいボロい。
来るべき時がとうとう来てしまった。
そういうことなのだろう。

解体の二文字が脳内で踊っている。

人事部からのメールはまだ届いていないが、この後内示も届くだろう。

好きな事と思い邁進してきたが、上というのは数字を見る。赤字は出ていないが、不要と判断されれば切り捨てられるのが定めだ。

彼女ともこれで…。

そう思った瞬間、ズキリと胸が痛んだ。
彼女との思い出が走馬灯のように浮かんでくる。

3時の休憩、楽しかったな。
休憩があんなにも楽しいだなんて、知らなかったんだ。
いつも怒られる事が多かったけれど、内心嬉しかったんだよ。君の優しさに触れているようで。
あぁ、流れ星を見た時に約束したお給料アップ。叶えてあげられなかったな。

楽しかった思い出と、果たせなかった約束に胸がどんどん苦しくなってくる。

ズルい心が、メールを開かないという選択肢もあるぞと耳打ちしてきたが──それは一時の逃げだ。
事実を知るのが、少し遅くなるだけに過ぎない。
一度決まったことからは、逃げられない。

研究所の長として、覚悟を決めなくては。

僕は、震える手でマウスを操作し、未読の件名にカーソルを合わせる。

カチリと鳴るマウスの音が、嫌に響いた。

クリックと同時にメールの本文が開かれると、そこには──研究所老朽化による解体の文字が…無かった。

代わりに、新しい検査機導入の知らせが入っている。

以前個人的に培地の検査をお願いしていたものが、新商品の開発に役立つと判断されたらしい。

新しい検査機の導入日と時刻の下には、古い検査機の回収と検査調整の要請が書いてある。

その後ろには、会社の今後の展望と研究所に求められることも書いてあった。

そこも隈なく読んだが、解体や異動の文字は見受けられない。

詰めていた息を大きく吐き出す。
それと同時に、胸に安堵が広がっていった。

まだ僕にやれることはあるらしい。

今できることは、検査の日程調整を考えることだ。
僕は早速取り掛かることにした。

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胸の鼓動
ラボ組──博士の場合

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最近、「勿体ない」という言葉と出会う回数が多い。
いつものように受け取るのを拒否していたが、それも難しいくらい目に付いている。

勿体ない。
意味がわからないくらいに、繰り返し繰り返し出会う言葉。
けれど、届くことには何か意味があるのだろう。
向き合うしかない。

胸に手を当てると、心臓は静かな音を立てている。
その音に耳を澄ましていると、脳裏に浮かび上がってきたのは可能性の光景だ。

今とは異なる環境の世界。

光って見えるその光景に心惹かれる自分がいるのは、確かだ。
手を伸ばし、求めても良いのだろうか。
本当にその価値が自分にあるのだろうか。
求めた瞬間、手を振り払われたらと思うと怖い。

?…脳裏にオセロの駒が出てきた。
白黒表裏一体の駒。
価値がないの反対は、価値がある。
勿体ないの反対は、勿体ある。

なるほど。
ゲームのようにひっくり返せば良かったのか。

これなら気弱な自分でも出来る。

そうと決まれば、勿体ないをひっくり返して、光って見える光景に手を伸ばしてみよう。
振り払われたら、ひっくり返れば良いや。

9/8/2024, 2:52:17 PM