職場のビルの裏手。
一日中、ほとんど日が当たらない、ビルとビルの隙間。
そこから、赤ん坊の泣き声が聞こえている。
人が一人通れるかどうか、ギリギリの隙間だ。
赤ん坊がいるとは考えにくい。
しかも、私以外の人には、その泣き声が聞こえないという。
「猫の鳴き声なんじゃないの?私には聞こえないけど」
同僚はそう言って、顔をしかめた。
その手の話は嫌いなのだろう。
私だって、出来ればこんな声は聞きたくない。
「そうかもしれない。でもさ、隣が何のビルか、知ってるでしょ?」
産婦人科。
かと言って、ビルの中から聞こえてくる声ではなさそうだ。
明らかに、ビルとビルの隙間の暗闇から聞こえてくる。
そしてそれは、決まって朝の通勤時のみ。
ある日私は、職場に出勤する途中、その隙間の前で立ち止まった。
聞こえている。赤ん坊の泣き声。
しかも、一人じゃない。何人もの、赤ん坊の泣き声。
隙間に目を凝らす。薄暗闇の中、蠢く無数の塊。
これは、この世に生まれてくることが叶わなかった命の雄叫びか。
日の当たる場所へ生まれいづることが出来ずに、日陰の存在のまま、打ち捨てられた生命達。
いつのまにか私の体は、ビルの隙間の暗闇に吸い込まれていた。
そして、私の前後でひしめき合う赤ん坊達。
私は目を閉じて、いくつもの赤ん坊の声を聞き、その中から、聞き覚えのある泣き声を探しあてた。
あの子…私の体に命を宿しながらも、我が子としてこの腕に抱きしめることが出来なかった、あの子。
ごめんなさい。
どんな事情があろうとも、手放すべきじゃなかった。
若さ故の愚かさで、こんな場所に閉じ込めてしまうなんて。
このまま、私もこの子達とともに、この日陰に沈んでしまおう。
償うことなど出来るはずもないが、苦しみを分かち合うことくらいなら…。
突然耳元で、あの子のキャッキャと笑う声が聞こえ、気付けば私は、職場のビルの前に立っていた。
そして、どこからともなく、風に乗ってあの子達の声が聞こえてきた。
「今日もお仕事頑張ってね、ママ」
1/29/2025, 12:59:34 PM