ki

Open App

「通り雨」

それは、水溜まりのようだった。
薄く、水面が広がり、透明さを活かし、世界を反射する。
四つん這いになり、水面を触る。
すればさざ波が立ち、ゆらゆらとその世界は揺れた。
きれいだと思った。素直にきれいに見えた。
変わりげのない、世界に見えた。
普通だった。ただの水のように思えた。"思いたかった"。

なにもない。『普通の光景だ』と。
でも。どれだけ嘘を本物だと思っても。
どれだけ事実を否定しても。
それは、所詮、夢幻だ。
じわじわと現実は牙を剥く。
だんだんと、色が鮮明になる。
その水は、否、水"だった"ものは、どす黒い色を帯びて。
"赤く″染まった。
気づけば、その朱は自らに絡まり付くように。
或いは、変わらない現実を見せつけるように。
自分の方へ流れてきて。
手は赤く濡れ、体を貪るように侵食していく。恐怖が体を支配する。

ふと、前を見てみれば。
そこには、君の倒れた体があった。


夢のようだった。
辺りは薄く、暗く、闇しかないような。
異常なくらい静かで、なにもない。
紺色に、包まれたような世界。
でも、どこかから、希望のように。
一つの光が目の前を照らす。
だんだんとそれは大きく、強くなっていく。
目を瞑る。開けたところで見える気はしない。
でも、何か、とても知りたいものが、見たいものが見えた気がして。
それがどうしても、気になって。
薄ら目を開けた。
ぼんやりと、情報は頭に回る。
なにも見えない。でも。
あの中には、何かがある。
そう、確信した。
でも、手は延ばせど届かなくて。
何がある? どこにある?
好奇心だけが膨らんでいく。
だが、その世界はだんだんと、白くぼんやりと霧のように。
薄く黄色く視界は染まる。
まるで、見せたくないかのように。
でも、一瞬だけ見えたんだ。
あの姿。あの、顔。

緩やかに背景との境目がどこかぼやけて。
いつしかそれは、消えてしまった。


なんの夢を見ていたのだろう。
ボーッとした頭を起こす。今は何時だろうか。
掛けていた布団をずらし、ベッドから降りる。朝、5時。
早く起きすぎたかな、なんて独り言を呟きながら、部屋に電気を付けようとして。止めた。

急に何かが覚醒したようだった。
何かを思い出しそうな、予兆。予感。
頭のなかを巡らせる。そういえば、どんな夢を見た?
見えそうで見えない、霧のような。
どこかで感じたものに似たような感覚。
ぼんやりと、頭が晴れていく。否、目が醒めた、と言う方が正しいか。

ああ、そうか。と、心のなかで納得する。全てが繋がった連鎖。心を圧迫もののない解放感。
そうだ。どうして忘れていたのだろう。
今日は、君が死んだ日だというのに。


二年前、君はいなくなった。公園で、血を流して。
一角に血溜まりを残し、君はどこかへ行ってしまった。まるで、幻想のように。
僕は、その死体を見た。体が、震えた。
撹乱して、おかしくなって。
まるで、血溜まりが、水のように見えた。
周りが霧のように、消えていた。まるで、雲の上みたいに。
気づけば、ベッドの上だ。どうなったのかさえ知らない。
通り魔なのか、自殺なのか。わからない。
ただ、死体を見ただけの、人間。
ただ、君を見た人間の、一人だ。


ふと気づけば、身体は力が抜けていて。
ああ、君を見たあの日もこうだったなと、思い出す。

二年前の今日。僕は君を見れなくなった。
何もかも、わからなくなった。
知らず知らずの内に君を忘れて。
何にも気づかずに前を向いた。背を向けた。

でも、それでいいのだろう。
きっと、君も前を向くことを望んでいる。
忘れてしまうことではない。背を向けることじゃない。責任を背負っていくこと。
僕に、歩んでいってもらうこと。
そう思う。
もう忘れはしないだろう。
責任をもって、向き合っていく。
でもきっと。
いつかは、通り雨のように、過ぎ去る過去として存在するようになる。
君だって、僕だってそうだ。
一つの思い出として、存在するようなる。
そうなっていく。


もう、朝日が上っていた。朝、6時。
君は、この太陽を見てどう思う?
心にそう語り掛けて。
これからだ。これからずっと。
僕は、君と一緒にいよう。心の中で、問いかけていこう。

窓を開ける。差し込む朝日が眩しい。
この朝日を、君も、見ているだろうか。否、きっと、見ている。

緩やかな風が吹く。少し、冷たい。
「ありがとう」
そんな言葉が聴こえた気がした。

9/28/2023, 9:45:10 AM