『麻衣ちゃん』
私を呼ぶ優しい声。心にすとんと落ちて、ほっとするような、胸が暖かくなるような声。
愛情のこもった声色で私に話しかけるのは、誰だったっけ──。
「……っ」
急に意識が浮き上がった。雨の日に窓を開けたみたいに、音が戻ってくる。
反射的に辺りを見渡した。綺麗に整えられた黒髪に青の洋服。いない。どこにもいない。バラバラに置かれた絵本。破られた画用紙。私が昨日使って、しまわないままに放っておいたんだ。
……こんな狭いおもちゃのテントの中になんて、いる訳ないのに。
胸がずきりと痛む。
『……おいてめぇ、今何つった!?』
パパの怒鳴り声。椅子が倒れる音に、皮膚と拳がぶつかり合う鈍い音。
思い出しちゃダメだ。
鼻がツンとする。目頭が勝手に熱くなって、私はギュッと目をつむった。
『大丈夫よ』
真っ暗いまぶたの裏側に、彼女の姿が浮かんだ。
いつもと同じ、こちらを気遣うような安心させるような優しい笑顔。
駆け寄った私に、彼女はそう言ったんだ。
彼女と話すのは大好き。私はお母さんがいないけど、彼女はまるで、ほんとのお母さんみたいだった。優しくて、あたたかい。
そばにいると、なんだかすっごくぽかぽかした気持ちになる。
もっと一緒にいたい。もっとたくさんおしゃべりしたかったのに。
唇を噛む。胸の前でギュッと拳を握り締めた。
私のせいだ。
私がお義母さんと仲良くするせいで、お義母さんはいつも酷い目に合うんだ。
私が何も話さなければ……。
閉じた目から涙が溢れ落ちる。
彼女の優しい笑みがいつまでもまぶたの裏に残っている気がして、私はテントの中で膝を抱えてうずくまった。
「お義母さん…‥
会いたいよ……」
窓の外は小雨がしとしと降り始めていた。
1/26/2023, 3:46:45 PM