私は彼氏と一緒に田舎の町を散策していた。
空は透き通るような青。
格子戸の町家が続く小路。
風に揺られてゆらゆらと踊る暖簾。
通りかかった店から漂う焼き芋の香り。
木々は赤や黄色に色づいて、
まるで絵画の中を歩いているようだ。
「この辺りには、昔から『いたずら狐』が出るって
言い伝えがあるらしい」
「人を化かすの?」
「そう。町の人たちは怖がって、あの人は狐じゃない
かって、みんな疑い深くなったとか」
彼の説明に私は笑った。
そんな話、今どき誰が信じるのだろう。
ふと、冷たい秋風が頬を撫で、
思わずぶるっと身震いした。
「手、繋ごうか」
彼が差し出した手を取る。大きくて、
少しごつごつしていて、でも温かい手。
私は彼の広い肩に頭を預け、うっとりと微笑む。
この時間が永遠に続けばいいのに。
「イチャイチャすんな」
突然、背後から声がした。
振り返る間もなく、男が飛び出してくる。
血走った目と、手には鈍く光る刃物。
「……え?」
思考が追いつかず、言葉が喉に張りつく。
まるでスローモーションみたいに、こちら目掛けて
刃の切っ先が振り下ろされる光景を眺めていると――
ドンッ!
体に走る衝撃。彼が私を突き飛ばしたのだ。
男の刃が彼の胸に突き刺さる。
「あっ……」
小さく漏れる声。
彼の服がみるみる血で染まっていく。
男は何度も何度も刃を振り下ろした。
石畳に広がる鮮やかな赤。
「逃げろっ……!」
地面に倒れた彼が私を見つめながら、
必死に声を絞り出す。
その声に押されるように、私は走り出した。
風が耳を裂く。景色がぶれる。息が上がる。
後ろから迫り来る足音。
角を曲がったところに、小さな交番が見えた。
「助けて! 人が、人が刺されて!
刃物を持った男が!」
ドアを開けて叫ぶと、中にいた警官が立ち上がった。制帽を深く被っていて、顔がよく見えない。
「落ち着いてください。その男はどちらへ?」
「すぐ外に……、追いかけられてて……!」
警官は緊張した面持ちで交番を出て、
辺りを見回した。
「……誰もいませんが」
「そんなっ!確かに男が、彼が刺されて!」
私は警官の腕を掴んで、さっきの場所へ引っ張って
いった。角を曲がった先にある石畳の小路。
そこには何もなかった。
血も、彼も、男も。
何もかもが消えていた。
「うそ……」
頭が真っ白になる。確かにここで。
ここで彼が刺されて、血が流れて。でも石畳は乾いている。何も起きなかったかのように。
「あの……大丈夫ですか?」
警官が心配そうに私を見つめる。
「もしかして……」
警官がゆっくりと制帽に手をかけた。
「犯人って、こんな顔してましたか?」
血走った目。歪んだ口元。
その顔は、彼を刺した男そのものだった。
「いやあああああああっ!」
◆
目を開けると、木々に囲まれていた。
さっきまでいた町は跡形もない。
彼も、男も、警官も。誰もいない。
立ち上がって辺りを見回す。ただの薄暗い森。
色づいた木々の間から、
わずかに木漏れ日が差し込んでいる。
ポケットからスマートフォンを取り出して、
着信履歴を確認した。
彼の名前はどこにもなかった。
メッセージも、写真も。
そうだ。私に恋人なんていなかった。
最初から。ずっと一人だった。
あの町も、デートも、彼の温もりも、繋いだ手も。
全部、狐が見せた幻。
冷たい秋風が通り抜け、
パラパラと枯葉が舞い落ちる。
私は森の中、ただ一人立ち尽くしていた。
お題「秋風🍂」
10/22/2025, 8:00:08 PM