"ミッドナイト"
「今日満月だってよ」
聖都大附属病院の、人通りの少ない箇所に位置する廊下に面する休憩スペースで、片手に持つスマホの天気予報に目を向けたまま、カップのホットコーヒーを啜って、テーブルを挟んで向かいに座る飛彩に向けて言う。
「しかも今夜は晴れらしい」
そう話を続ける。だが何も帰ってこない。いつもなら「そうか」とか短くとも何かしら言葉を返してくる。何かあったのかと不思議に思い、視線をスマホから離して飛彩を見る。何やら物思いにふけっているようで、目は彼の手前に置いているカップの中だが別の、どこか遠くを見ているような目をしている。
──何か思い悩んでんのか?
なんだか嫌な予感がした為、口を開く。
「おい」
何も返事が無く、微動だにしない。気付いていない。これは相当だと見た。
「おい」
今度は少し怒気を込める。耳に入ったようで、目の焦点が合い、その後すぐパッと顔を上げてこちらに目を向ける。「済まない」と小さく謝ると、ホットコーヒー──飛彩はカフェオレ──を啜る。
「何の話だ?」
「……どこまで聞いてた?」
「今夜は満月だ、という所まで……」
やはり、そこまでははっきりと聞いていたようだ。更に聞き出そうと口を開いて再び問いかける。
「寝不足か?」
「違う。毎夜睡眠時間はしっかり確保しているし、夜勤での仮眠も適度に取っている」
やはり違うようだ。あの虚ろな目は、明らかに睡眠不足から来るような目ではなかった。
「……満月に何か嫌な思い出でもあんのか?」
──当たりか。
言いづらい事だろうとコーヒーをゆっくりと啜り、言葉を待つ。
数秒程静寂に包まれる。そしてゆっくりと飛彩の口が開かれて、静寂を切るように言葉を発する。
「高校生の頃の事を思い出した。二年の時に、不思議な症状で運ばれてくる患者が出てきた」
「《無気力症》」
「そうだ。やはり知っていたか」
「当たり前だ。新聞記事に載ったり、ニュースになって、騒がれてたんだから、知らねぇって言う方が無理だろ。特に十二月とか、その二ヶ月後」
当時、《無気力症》というものが突如流行りだした。初めはストレスから来る精神病だと思われていたが、《無気力症》の患者は日に日に増えていき、何かしらの陰謀が囁かれていたりした。
医大で、勿論病院の近くという事もあり、授業中に救急車のサイレンが響き渡るのは普通だったが、午前の授業一つに何度も何度も響き渡る事まではなかった。
最初は授業どころではなかったが、いつの間にか日常茶飯事となっていた。学年が上がった時、救急車のサイレンが時折響き渡る程度に戻った時は、不謹慎だが、ちょっと寂しさを覚えていたのを思い出す。
「あぁ。だが、父の言伝での印象だが、《無気力症》で運ばれてくる患者が、満月の次の日に多かったなと」
「あぁ……そういや……」
当時の記憶を巡らせる。確かに、二月頃の比ではないが、満月の次の日の午前授業の時は特にサイレンの音が多かった。まるでコーラスのように、何度も重なって聞こえていた。その時が一番授業どころではなく、やむを得ず自習になったりして、その年の定期試験対策が大変だった。
「それと、妙な感覚があった」
「妙な感覚?」
単語をそのまま聞き返す。すると「あぁ」と小さく頷いて言葉を続けた。
「はっきりとは覚えていないが……、確か……梅雨の時期、だった気がする。その時から妙な感覚が……」
顔を伏せて、当時の記憶を思い起こしながら、つらつらと語り出す。
「具体的にどんな感覚だ?」
「ぼんやりとだが……なんだか、夜がとても長く感じた」
「夜更かししてっと長く感じて当然だろ」
軽い口調で言葉を返す。すると首をゆっくり横に振って話を続けた。
「いや、高校生の頃は今より睡眠時間が長かった。夜遅くより朝の方が記憶しやすいからな。宿題と復習は夕飯前に済ませて、予習は朝の支度を終わらせてからやっていた」
「意外だな。てめぇなら夜遅くまで勉強してそうなのに」
「睡眠も生命活動の為に大切な事だ。それに高校生、成長期だ。身体の成長は睡眠時に起きる。早めに寝た方が身体の成長が早い」
そこまで話すと「それより」と言葉を切って軌道修正し、続きを話し始める。「悪い」と小さく謝る。
「特に満月の夜は、窓から距離をとっていた記憶がある」
「距離をとっていた?」
「窓の外から見える景色は満月の夜もそれ以外の夜も同じだったが、満月の夜は……何故か窓に近づく事を身体が拒んでいた」
そこまで聞いて「ふーん」とそれ以上は聞かずに残りのコーヒーを啜って嚥下する。
「そろそろ時間だ。変な話させて悪かった」
そう言って立ち上がり、カップをゴミ箱に捨てる。立ち上がるのを見ると、飛彩は自身の左手首に巻かれている腕時計を見て「もう時間か」と小さく呟いて、飛彩もカップを仰り残りのコーヒーを飲んで立ち上がって、俺の後にカップをゴミ箱に捨てる。
「いや。こんな話をし始めてすまなかった。夜空を見ながら帰るのも、悪くないな。澄んだ空気のよく晴れた冬空に浮かぶ満月は綺麗だろうな」
そう言うと、すたすた歩いて廊下に出る。その後ろに続くように、俺も廊下に出る。
「ここでいい」
「そうか。ではまた」
「おう。またな」
そう言って、お互い背を向けて反対方向に歩き出して別れた。
──あいつが言ってた『妙な感覚』……。そういや、俺も似たような感覚があったような……。
朧げに思い出したが、『考えても無駄』だと考えるのを止めて病院の外に出た。
1/26/2024, 1:10:18 PM