無音

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【70,お題:過ぎた日を想う】

彼は丘の上に聳え立つ、1本の楓の木
見晴らしの良いその場所から、変わり行く風景を眺めながら彼は育った

彼が生まれたのはもうだいぶ前のことだろう
その頃はまだ仲間が多かった、この場所も緑が溢れ
動物や植物たちと共に、一日中太陽の光を浴びて過ごしたものだ

だが、幸せな日々とは長くは続かないもので

日差しの強かったある夏の日
空に激しい閃光が迸った

ピカッ...ドッガアアアッン

草木は焼け、建物は吹き飛び、人々の悲鳴が聞こえた
もうもうと煙と炎が広がるのを、彼はこの丘から静かに眺めていた

炎が広がる街から人々が逃げてくる
赤ん坊を抱えた若い母親が、泣き叫ぶ子供を安心させようと焼けた喉で掠れながら歌った子守唄
両目の潰れた男性を介抱している、友人と思しき青年
「痛い痛い」とうわ言のように呟いていた少女も、いずれ静かになっていく

街から逃げてきて、自分の足元で息絶えた数多の命達、彼は一度も忘れたことはない

この後も、火事で森が焼けたり 雷で幹が裂けることはあったが
あの夏の日の地獄に比べたらどうってことなかった

それだけ”あの日”は彼にとって忘れてはいけない日なのだ



それから何年もたった、人間達はあの日の悲劇を次第に忘れつつある

記憶の保管者である、この楓の木も
「景色の綺麗なこの場所にホテルを建てる」、という計画の礎となる運命なのだ

いよいよ明日、彼は人間達の手によってその身を刈り取られる定めにある
ぼんやりと過ぎた日を想いながら、彼は最後の夜を穏やかに過ごす


人間達よ、どうかこれ以上過ちを繰り返さないで
君たちのどうしようもなく醜い部分も、悲しいほどに優しいところも私は知っている

その他の生き物にはない、賢さという武器を持っていることも

だからどうか、使い方を誤らないで
貴方達は、きっとこの世を良く保てるはずだから


彼がその命を終えるときまで、想い続けたのはそれだけだった

10/6/2023, 12:15:33 PM