逆井朔

Open App

お題:二人だけの秘密

(※トラウマ描写、グルーミング描写、幼児への性加害描写(匂わせ程度ですが)、嘔吐描写あり)

_____




















 いいかい、このことは僕たち二人だけの秘密だよ―……。


 子どもの頃の思い出がふいに記憶の箱の中から溢れ出てきて、思わず我が身をかき抱くようにしてしゃがみ込んだ。
 言葉にならない嗚咽が溢れ、途中から逆流してきた食べ物がぐしゃぐしゃの状態で地面にびしゃりと広がった。止めることができないその流れは、やがて胃液の酸いた味に辿り着き、何も出てこないのにただただ苦しい状態がしばらくの間続いた。

 心療内科にかかるようになってもう随分と経つ。
 きっかけは、わが子の成長だった。
 幼稚園を無事に卒園し、小学生になり、ここまで大きくなってくれたことが本当に嬉しかったし、ここに至るまでが一つの長い旅路だったように思えもしたものだった。
 その子が三年生に上がったとき、不意に自分の子ども時代が蘇った。これがいけなかった。
 当時の副担任は、とても容姿が整っていて、女の子たちからは王子様みたいにチヤホヤされていた。たぶん、今思うと、自分の顔の良さを自覚して、それを利用するのに長けていたんだと思う。
 問題は、その対象が私のような子ども相手だったことに尽きる。
 クラスのクソガキみたいな男たちと先生は全然違う。落ち着いていて、穏やかで、下ネタなんか絶対言わない。いつも優しく、私たち女の子の話を聞いてくれる。
 当時の私は、そんな風に彼にすっかりのぼせ上がっていた。
 その時点で今の私ならおかしいと思う。女子の、それも幼い子の話ばかり丁寧に聞き、男子に対しては冷淡とも言えるほど素っ気なかった。
 でも、当時は私も子どもで、そういう大人がいびつで歪んでいるということに、ちいとも気づくことができなかったのだった。
 放課後の教室は軽く、その先生の開いたサロンみたいな感じで、女子が少しだけ残っては、先生と他愛のない話をして盛り上がっていた。皆で話すから、どうしても先生と話す機会は多くなくて、ちょこっと話せるだけでもバカみたいに舞い上がって、嬉しくなった。
 先生の低くて大人っぽい声が、すごく素敵で、ずーっと聞いていたかった。
 学校では、差別やいじめを助長しないために、先生に対しても友達に対しても敬語を求められ、相手をあだ名や下の名前で呼ぶことは認められていない。
 でも私は、ずっと先生に呼んでほしかった。その艶のある声で、美緒って。そしたらきっと、もっと自分の名前が好きになれるような気がしていた。

 先生の「サロン」でおしゃべりするとき、その表情の細かな変化も見逃したくなくて、ずっと先生の顔ばかり飽きもせずに見つめていた。
 きっとその時の私は、物欲しそうな顔でもしていたんだろう。だから、あんな風に目をつけられてしまったんだ。

「鴻野さん、今日、このあと少しだけ時間はありますか」
 皆が帰ろう、とランドセルを背負い直すなか、私も同様にヨイショとキャラメル色のそれを背負っているところだった。
 本当に小さな声で、耳元に囁かれたとき、小さな熱が背筋をつぅと駆け抜けていくのが分かった。電気が流れたみたいな衝撃で、憎たらしいことに、その時の感覚は今でもはっきり覚えている。
 先生が私を呼び止めてくれた。それだけなのに、まるで宝くじに当たったみたいに嬉しかった。他の子にバレたら、きっと羨ましがられたり妬まれたりする。だから私は先生と同じか、それより小さな声で返した。
「いくらでもあります」
 この返事を聞いた時の彼の表情は、当時はうまく言い表すことができなかった。
 今の私なら的確に表せる。よく言えば陶然としていて、悪く言えばすっかりやにさがっていた。酒にでも酔ったような、そういう顔つき。身近な大人が子どもに見せたことのない、不思議な顔だった。今思えばそれこそが、警鐘だったのかもしれない。そこで引き返せば、こんな地獄に長居する羽目にはならなかったのに。
 一度皆と家に帰って、それから、学校と家との間のあたりにあるコンビニで先生を待った。そうするように先生から指示されたからだ。
 親は共働きで、家には誰もいなくて、二人とも遅くに帰ってくるから、家を抜け出すのに言い訳なんて必要なかった。でも一応、友だちと遊んでくる、と念のためメモだけ書いて家を出た。すっかり浮き足立って。
 周りの友だちには、幼稚園の頃から彼氏のいる子もいたけど、私はそういう人はいたことが無かった。だから、夢想した。
 きっと大人はこんな風に好きな人とデートするんだ。私も、先生にとって特別な相手にしてもらえるのかもしれない、なんて。
 本当にバカみたい。そんなわけ、あるはずないのに。

 先生は、白いワンボックスカーで現れた。後部座席との間にはのれんのようなものがあって、後ろ側は見えないようになっていた。
 先生は私を後部座席に乗せると、ドライブしよう、と言って、遠くまで車を飛ばした。
 どこに行くのか分からないなかでも、私には不安なんて無かった。
 思い返せばこういうことからして、本当にありえない。なんで私はずっとそれを受け入れていたのか。淡い憧れを完全にいいように利用されていた。今なら分かる。グルーミングされていたのだ、私は。
 一番言いなりになりそうな女の子だったから、使われた。多分その程度のことだったのだ、あの人にとって。

 適当な場所で車を止めた先生は、車のエンジンを切ると、私のいる後部座席に乗り込んできた。
 今思うと、窓ガラスはマジックミラーのようになっていて、内側から外は見えるけど、外から私たちは見えなかった。
 そこで、私は。

 記憶がどんどん溢れ出て、今の私と昔の私がごちゃ混ぜになる。そうして胃液だけが口からぴちゃぴちゃ地面に出ていく。

 恋人にするみたいに愛おしげな眼差しで見つめられ、髪を手で梳かれ、唇にうやうやしく触れられ、舞い上がっていた。
 首筋に触れられて、くすぐったさのようなしびれを感じて身をよじると、なぜかとても喜ばれた。
 そっと指先で背中をつーと撫ぜられ、あっと甲高く声が漏れると、弱点を見つけたとばかりに攻め立てられる。こちょこちょとくすぐられているんだとばかり思ったけれど、先生の目的は違った。

 気づいたら先生が、私の平たい胸の蕾を撫でていた。何をしているのか分からず首をかしげる私に、先生は笑って言うのだった。

 美緒ちゃん。僕の恋人になってくれるかい?
 僕は君だけを大人扱いするよ。
 君を幸せにするし、気持ちよくもする。この場所も、恋人だけが触ることを許される場所なんだ。だから恋人の僕にだけ、触らせておくれ。

 恋人にしてもらえる。そのことがただ嬉しくて、何を言われてるか正味半分も理解していないままに頷いた。
 そうして、私は先生に「可愛がられた」。「大人扱い」もされた。

 大人は恋人同士のことはわざわざ他言しない。人に言うと、いろいろ陰口を叩かれたり、失礼なことを言われたりする。だから皆秘密にするものなんだ。
君も僕の恋人なんだから、このことは誰にも言ってはいけないよ。僕も、君が大切だから誰にも言わない。このことは、二人だけの秘密だよ。誰にも邪魔されない楽園にいこう。

 一見甘やかな口説き文句に、小学三年生の私はすっかり魅了されて、そしていいように身体を許した。それが大人の恋愛で、私だけは成熟した大人なのだと彼の言葉で都合よく思い込んだ。


 _____

電車に乗りながら30分くらいで書きました。
また後で続きが書ければ書きます。 

2026.5.3 21:30
 _____

よいこの皆は、未成年に手を出す成人を信用しないでね、という感じです。
甘やかな言葉で取り繕っても、そこにはむき出しの性欲と征服欲があるだけです。
自律と自立がまだ難しい未成年に、さも自分だけが味方である、恋人である、と嘯いて、いいようにもて遊ぶ大人は決して格好いい年上の恋人などではありません。
ことに、学校の先生と生徒、児童の恋愛や、未成年といい大人の恋愛をよしとする漫画を見かけるたび、それをフィクションとして受け止められる人だけが読んでいるのか、心配になります。
(自分は虚構と割り切って、現実ではあり得ないことと理解しながら読むことはあります)
本当に切実に心配になる世の中なので。

2026.5.4 0:21 追記

5/3/2026, 12:20:02 PM