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澄んだ瞳

 目覚ましの音で目を覚ます。
 もっと寝ていたい誘惑にかられながらも、目覚ましの音がそれを許さない。
 このまま惰眠を貪りたいが、この暑い中仕事に行かないといけない。
 誰かに変わって欲しいが、これも生きるため。
 俺は観念して、目覚ましのアラームをオフにし、ゆっくりと上半身を起こす。

 ぼんやりした頭で部屋を見渡すと、部屋の隅に俺を見つめる澄んだ目があった。
 黒い黒い穢れを知らない純粋な目………

 メス鹿である。

 普通なら『なんで鹿がここに?』と慌てるだろうが、俺は驚かない。
 この鹿は数週間前からここに居候していて、最初は全く落ち着かなかったのだが、今ではいつもの日常だ。
 事の始まりは数週間前の事。
 仕事帰りに飲み屋でしこたま酒を飲み、泥酔した俺が鹿を口説いてお持ち帰りした。
 人肌寂しいと言う理由で。

 いくら恋人が欲しいからって、見境の無い自分が嫌になる。
 まさか社会人になって、特級レベルの黒歴史が出来るとは思いもしなかった。
 それだけだったら、この無駄に艶やかな毛並みの鹿を追い出し、忌まわしい記憶を封印して終わるのだが、そうもいかない事情がある。
 この鹿、ただの鹿ではないのだ。

「男鹿《おが》さん、起きましたか?」
 眼の前の鹿から、美少女ボイスが発せられる。
 この鹿はよく知らんけど、人語を話せる。
 そして、なぜか美少女にもなれる。
 ラノベでも、こんな設定ないぞ。

 とはいえ、普段は美少女ではなく、今の様に普段は鹿のままである。
 この状態が楽らしい。
 土下座して、『常時美少女モード』をお願いしたことあるのだが、無情にも踏まれただけだった。
 南無。

 なお、話したり変身できる理由を聞いたことがあるが、『鹿ですので』と曇りなき眼で言われた。
 これは聞いてもまともな答えが返ってこないことを察し、それ以来気にしないようにしている。

「今日は行きますよね、デート」
 鹿がデートのお誘い。
 世界広しと言えど、鹿にデートのお誘いを受けるのは俺くらいの物だろう。
 これが鹿ではなく美少女だったらいいのに、といつも思う。
 まあ、デートの時は美少女モードなので、別にそれはいいんだけど。

「残念なんだが、美鹿《みか》。
 今日も仕事だ」
「昨日も一昨日も仕事だったじゃないですか」

 美鹿は憤懣遣る方無く怒っている。
 怒っていると思う、多分。
 鹿の表情はよく分からん。

 美鹿には、仕事の事を何回か説明したのだが、駄目だった。
 鹿には『労働』という概念が無いようだ。
 普段、鹿せんべい食うか散歩してるだけだもんな。
 理解できなくても仕方がない。
 
 とはいえ、毎朝このやり取りをすると、美鹿でなくても辟易するだろう。
 なにせ、お互いの主張が全く通らないのだから。

「男鹿さん!
 私にいっぱい鹿せんべい食べさせてくれるって言うのは嘘だったんですか!?」
「帰りに買って帰ってやるから、それで勘弁してくれ」
 毎日のように買うので、せんべい売り場の人に顔を覚えられた。
 毎回大量に買い付け、かといって周囲にいる鹿にあげることもない奇妙な客。
 多分、妖怪かなんかだと思われていると思う。

「仕事仕事って、そんなに仕事が大事なんですか!
 私と一緒に鹿せんべいを食べるのが、そんなに嫌ですか?
 そういえば、男鹿さんは一度も鹿せんべい食べませんよね」
「鹿せんべいは人間の食べ物じゃねえ。
 鹿の食べ物なんだよ」
「なんですか、食うに値しないって言うんですか?」
「キレすぎだろ。
 くそ、お前に鹿せんべい食べさせるために仕事してるのに、なんだってこんなに言われないといけないんだ」

 俺は、いわれなき罵倒にちょっと苛つきつつ反論する。
 美鹿の鹿せんべいのため、こんなに頑張っていると言うのに、なんで責められているんだろうか。
 美鹿は毎日家でゴロゴロしているだけなのに!

 ……まるで夫婦喧嘩みたいだ。
 でも相手は鹿なんだよなあ。
 マジで何やってるんだろうと、俺は少しだけ落ち込む。

 俺は落ち込みつつ、美鹿からのさらなる罵倒を覚悟する。
 しかし、美鹿からの罵倒は来ず、かわりに俺を尊敬するような目で(多分)見ていた。

「男鹿さん、それホントですか」
「何が?」
 先ほどの態度からは打って変わり、美鹿の様子がおかしい。
 なんだ?
 美鹿は、まるで鹿せんべいを前にした鹿みたいに、ウキウキしている。

「さっき『お前に鹿せんべい食べさせるために仕事してる』って……
 私の――いえ、私たちの鹿せんべいを作ってくれているんでしょう?
 そうなら早く言ってくれればいいのに」
「えっ」

 俺の言葉を勘違いしたのか、どうやらこいつの中で、『俺の仕事=鹿せんべい製造』となったらしい。
 指摘するのも馬鹿馬鹿しいが、とりあえず誤解を解いておこう。
 今すぐ作ってくれと言われても面倒だしな。

 俺はそう思い、美鹿の澄んだ瞳をまっすぐ見て――
「キラキラ」
 澄んだ瞳をまっすぐ――
「ワクワク」
 まっすぐ――

「ああ、鹿せんべいを作ってるんだ」
 はい、嘘をつきました。
 俺のバカ。
 なんで日和るんだよ。

 俺は自分の不甲斐なさに落ち込むが、美鹿はこれ以上ないくらい喜んでいた。
「男鹿さんのおかげで、私たちは美味しい鹿せんべいを食べることができるのですね」
「えっと」
「引き留めてしまい申し訳ありません。
 男鹿さん、早速お仕事へ。
 鹿せんべいを作って――」
 そう言って、美鹿は頭でグイグイオレを押す

「押すな押すな。
 朝の支度がまだだ。
 まだ朝ご飯すら食ってない」
「ごめんなさい。
 あ、今日は私が朝の準備をしますね」
 と、言うや否や美鹿は、ポンという音と共に美少女へと変身する。
「料理作るならこっちのほうが楽なんですよね」
 そう言って、美鹿は台所に向かう。
「その代わり、たくさんの鹿せんべい、お願いしますね」

 美少女となっても澄んだ瞳の美鹿に見つめられ、嘘を貫き通すしかなくなった俺なのであった。

7/31/2024, 1:10:11 PM