きゅうり

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海で溺れていた一人の人間を助けた。
人間とは関わりたくなかったが、もがき苦しむ様子は見ていてあまりにも居た堪れないものだった。

姿が見られぬ内に目の前から消えたかったが、岸へと引き上げてもなお、一向に目を覚まさぬものだから私は男の顔を覗き込んで目が覚めるのを待った。

あれだけ苦しんでいたのだから、覚醒はゆっくりとするものだろう。目が覚めるようだったら身を隠そう。
そんな油断が後に私の姿を見られるという失態を産んだ。

姿を見られたその時で、諦めてこの場を去ればよかったのに、私はそれをしなかった。

なぜなら、男の私を見つめる目が今まで人間が向けてきたものと全く違う物だったからだ。
男の瞳は黒く、誰もがを惹きこんでしまうのではないかと思うような瞳だった。
男は、半分が人間の体で、下半身が魚の私の身体を見ても、彼は私を化け物を見るような目では見なかった。

なんなら、私の手首をひしと掴んで、お礼を言ってみせたかと思えば、化け物と罵るどころか私の持つ鱗が美しいとまで言ってみせた。
長い年月を生きてきて初めて見るタイプの人間だった。


彼と私が距離を縮めるのにそう長く時間はかからなかった。
海から離れられぬ私のもとに男は足繁く逢いに来た。

男は私に質問した。
どこまで泳げるのか、どれくらい生きているのか。
多く質問をよこして、わたしはそれに律儀に答えてやった。男は私に多く質問したが、それと同じくらい私に地上のことを教えてくれた。
彼が色々なことを教えてくれるから、私は彼に毎日質問するようになった。

――あなたは今日何をしたの?

男と話す時間は単純に楽しかった。

――人魚は長く生きる。生きるその血肉を人間が少量でも摂取すれば老いず、死なず生き長らえれる。

男と過ごす時間が長くなるうちに、私は作り話のようなその事実を多く思い出すようになった。
男と一緒にいる時には、決まって耳元で悪魔が囁いた。
"コイツにお前の血を飲ませれば、お前らは一生、一緒にいられる"と。

人魚は長く生きている。広大で自分がどこで生まれ落ちたのか忘れるほどに長い時間を果てしなく続く海に一人孤独に生きる。
人魚が生まれる原理は人魚たちにもよく分からない。人間のように交配して子孫を産む訳でもない。
数百年に一度、神かなにかの気まぐれで作られ、親も仲間も居ないまま長い時間を生き続ける。

一人きりで広い海を彷徨い続ける事は酷く、痛いほどの孤独を産む。
そうして産まれた彼女の膨大な孤独はいつしか、彼と一緒に過ごす時間で打ち消されていた。

そんな、彼と永遠にも近い時をすごしたいという欲求は、収まることを知らず膨れ上がる。

そしてその欲は、彼女を突き動かし、実行に移した。

眠る男の顔は安らかで安心しきっている。
大丈夫だ。
どんなに彼が長い時間を生きようとも、彼には私がいる。
だから、大丈夫だ。

鋭い自分の鱗で掌を深く切る。傷口からは血が溢れ出す。重力に従って滴れるその血を男の口元に持っていこうとした。
その時、、

彼女は正気に戻った。

正気に戻った彼女は、すぐさま眠る男から離れ、彼女はできるだけ彼から距離をとるようにして深く海へと潜る。

私はある時、自分の姿を見た人間からバケモノと罵られたことに心を傷つけた。なのに、私は目の前の彼を人間の寿命をも超越して永遠に生き長らえる、人としての理から外れた人間にしようとした。
これは、彼を私と同じバケモノに変えようとしたことと同然だ。

なんと醜い心なのだろうか。
私は、自分の欲にだけ呑み込まれ、愛する人間を自分の作った檻のなかに閉じ込めようとした。

浅ましく、自分勝手で醜い。

彼が話した童話の中の人魚とは酷くかけ離れている。


――あぁ、こんな醜い思いを知るのなら、いっその事、彼が話してくれたような、童話に出てくる人魚のように、報われない恋の前で潔く泡になって消えたかった。

泡になれぬ彼女は絶望し、泣き呻いた。
そして深く海に潜ったまま、二度と、男の前に姿を表さなかった。

それでも時々思い起こすようにして、いつかの彼にしたように、彼女は男に届かぬ質問をする。

――あなたは今何をしているの?

深い海の底で彼に幸せが訪れていることを願って。


――――人魚
お題【君は今】
















2/26/2024, 4:52:26 PM