「美しい」
多分ショートショートです。
ある日、不思議な子が私の前に現れた。
背丈の小さいその子はどうやら子供のようで
何らかの原因で記憶を失ってしまったらしい。
何も覚えてないらしいその子の記憶を取り戻すべく親探しも兼ねて私はその子と街を歩く事にした。
その子はとても不思議な子で、見ず知らずの私になんの警戒心も持つことなく、記憶が無いことに戸惑う様子も無かった。
むしろそれが当たり前のように。
不思議な事はそれだけではない。
その子は本当に何も知らないようだった。
自分の名前、家の場所、親の名前、それだけじゃない、道に生える草、花、空、横断歩道、信号、柵、建物、橋、川、道路、目に見えるありとあらゆる物を「初めて見た」と言うのだ。
その様子はまるで喋れる生まれたての赤ん坊のようだと思った。
記憶を取り戻すにしろ、親を探すにしろ、これは相当苦戦しそうだと思わず深いため息を吐く私とは対照的にその子は目をキラキラと輝かせ当たりを見回していた。
どうやら、何も知らない無知な子にはこの世界が私とは違って見えるらしい。
私は当たり前に見ているこの光景も、今のこの子にとっては初めて見るものばかり。
そして新しい物を見つけては私に聞いてくる。
その姿はとても輝いて見えた。
その子が羨ましいと思った。
何気ないこの景色も輝いて見える事が。
見すぎてしまうというのは慣れてしまうというのは悲しいことなんだと痛感する。
この子も記憶を取り戻したらこの景色も一気に色あせて見えてしまうのだろうか。
そう思ったら、記憶を取り戻して欲しくないと思ってしまった。
今のまま、美しく、輝かしい世界のままこの子の目に映って欲しいと思ってしまった。
でも、きっとこのまま記憶が戻らなくても、いつかはこの景色に慣れてしまう。
そして知ってしまう。その瞳に映してしまう。
暗い影を、闇を、醜く霞んだ部分を嫌でも見ることになる。
そしたらこの子の瞳に映る世界は汚れてしまう。
綺麗なまま、何も知らないまま閉じ込めてしまいたい。
幼い頃の自分と重ねてしまったのか、随分と行き過ぎたことを考えてしまった。
その子の呼び声で我に返ると、その子は心配そうにこちらを見つめていた。
その瞳はとても澄んでいて、また先程までの考えが頭を過ぎってしまった。
複雑な気持ちのまま街を歩く。
その子は相変わらず瞳を輝かせて当たりを見渡している。
そして私に質問する。その繰り返し。
そんな中、ある公園の前でその子はとまると今までとは違い何かを知っているようにその公園に入っていく。
そして当たりをきょろきょろと見渡すと急に走り出した。
慌ててついて行く。
階段をタッタッタッと駆け上がっていくその子は子供とは思えないほど足が速かった。
そして、その公園の階段は有り得ないほど長かった。
まるで登山でもしているように険しくなる斜面
木でできた簡易の階段も上に行くにつれ階段と呼べるかどうか怪しくなってきた。
そしてやっと登りきり、肩で息をし呼吸を整える。
あの子を追いかけようと走りながら一気に駆け上がった反動が身体に来ていた。
普段運動をしているのにも関わらずあの子に全く追いつけなかった。
しかもその子は息の上がった様子もなく息の上がった私を心配しているしまつだ。
それにしてもここに何かあるのだろうか。
何かを知っているようだったが。
そんな事を思っているとその子は私の息が整ったのを確認して、また先に歩き出す。
まだ先があるらしい。
しばらく歩いていくと鬱蒼と茂る木々が無くなり道が開ける。
その子が私を呼ぶ声がして辺りを見回す。
そしてその子を見つけたと同時に思わず声を上げる。
その子の後ろには先程まで巡っていた街が夕日で色づき幻想的な景色が広がっていた。
美しい、思わずそう思ってしまうほど綺麗な景色。
そんな景色に見とれているうち
気づけばその子は居なくなっていた。
あの子は一体なんだったのだろう。
それにしても見慣れてしまった街並みが、こんなに綺麗に目に映る時が来るとは思わなかった。
見方によってこんなに変わるのか、と思った。
見慣れてしまって、色あせてしまった、あの街も
こんなに美しいんだとまた思えたことが嬉しかった。
どれだけ穢れても、闇を知ろうとも、美しく見える。
いや、そういった暗い部分を知っているからこそ、こんなに美しく見えるのかもしれないと密かに思った。
あの子はきっとそれに気づかせてくれたのだ。そう思うことにした。
1/16/2023, 3:53:35 PM