汀月透子

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〈君が紡ぐ歌〉

 晩秋の光が、レースのカーテン越しにやわらかく揺れていた。
 ちゃぶ台の向こうでは、妻が膝の上に小さな命を抱いている。
 産まれたばかりの初孫。頬をほんのり桜色に染め、すやすやと寝息を立てていた。

 「ねんねんころり、風の音……」

 妻の口から、そっと子守歌がこぼれた。
 その旋律を耳にした瞬間、胸の奥がふっとざわめいた。懐かしい、けれどずっと忘れていた音。
 あの頃、仕事で帰りの遅かった俺が帰宅すると、隣の部屋から聞こえてきた声──
 なかなか寝つかない娘をあやしながら、妻はいつも小さく歌っていた。
 歌詞も旋律も、特別なものではない。ただ、夜気に溶けていくその声が、どんな子守唄より温かかった。

「その歌、覚えてるよ」
 と、ソファに座っていた娘が笑った。
「小さい頃、眠れないときにママが歌ってくれたよね。
 最後の“夢のほとりで待っている”ってところ、なんだか好きだった」

 妻は驚いたように目を丸くする。
「そんな歌詞、あったかしら?
 私覚えてないわよ」
 そう言って笑う。
 「あの頃は毎日が必死で、記憶なんてほとんどないのよ。
 朝から晩まであなたにかかりきり、夜もろくに寝てなくて。無我夢中だったわね」

 子育てに追われていたあの日々。寝不足で、泣き声に振り回されて、余裕なんてなかったはずの妻。
 その中で、娘をあやすたびに、自然と口からこぼれた歌。それを今また、孫に向かって歌っている。

 何かを思い出しているのか、妻がふっと息をつく。
「……私の母も、こんなふうに歌ってたかもしれないわ」
「お義母さんが?」
「はっきり覚えてはいないけど、たぶん、私が眠れないときに歌ってくれてたのね。
 ひとりで寝るようになってからも、夜になると台所の方からおなじ歌が聞こえた気がするの。
 そのときのメロディーが、頭に残ってたのかもね」
 そう言い孫をあやす妻の動きが、少しずつゆっくりになる。

 「ほら、寝たわ」
 妻が小さな声で言う。孫の胸が、ゆっくり上下している。
 俺は思わず、そっと手を伸ばし、その小さな手を指先で包んだ。
「その歌、三代続きだな」
 俺がそう言うと、妻は照れくさそうに
「たいした歌じゃないのにね」
 と答えた。

 その歌は、家族をつなぐ糸のようなものだ。妻が紡ぎ、娘が受け取り、孫へと渡していく。
 何も意識せずとも、言葉や音は受け継がれていく。誰かを想って紡いだ歌は、形を変えても、消えない。

 窓の外で、夕風が木の葉を揺らした。
 小さな寝息と、遠くの風の音。そのあいだに、妻の声がまだ微かに残っているような気がした。

──君が紡ぐ歌が、また新しい朝を運んでくる。
 当たり前のように流れていく日常の中で、その旋律は響き続けるのだ。

10/19/2025, 4:27:06 PM